近世和歌文学~歌人について~


 

「近世」の時代範囲

 

 

 

「近世和歌文学」について述べるにあたり、まず「近世」という時代区分が、いつ頃のことを指すのかについて確認しておく必要がある。

 

日本の歴史における「近世」は、一般に「江戸時代」を中心とする時代区分として使用されている。織田信長が京都に進出した1568年(永禄11年)から、豊臣秀吉による政権下を経て徳川家康の政権が成立するまでを含め、大政奉還により徳川幕府が消滅した1867年(慶応3年)までという意味で用いられることが多い。本コラム上では、この1568年(永禄11年)から1867年(慶応3年)までを「近世」とし、その時代を少しでも生きた歌人を取りあげる。

 

 ただし、「近世」の具体的な時代範囲については様々な見解が存在している。『広辞苑第6版』(岩波書店 2008年)には、以下のように記されている。

 

 

 

  ①今に近い世。近時。近頃。

 

  ②(modern age ; early modern)歴史区分の1つ。古代・中世のあとに続く時期。広義には近代と同義で、狭義には近代と区別して、それ以前の一時期を指すことが多い。一般にヨーロッパ史ではルネサンスから絶対王政期、日本史では江戸時代(安土桃山時代を含む場合もある)を指す。

 

 

 

開始の時期については、織田信長の政権の時期を中世に含めて1590年(天正18年)頃からとする説や、戦国大名による領域支配に注目して1468年(応仁1年)頃からとする説、徳川家康が江戸幕府を開いた1603年(慶長8年)からとする説など、諸説ある。また、その終焉についても同様に、ペリーが来航した1853年(嘉永6年)、日米和親条約が締結した1854年(嘉永7年)などによる開国を境に近世の終わりとする説などがある。いずれにしても、江戸幕府による治世を中心とした時代区分である点でほぼ共通していると言えるだろう。

 

現在の日本は、「古代・中世・近世・近代」の4区分の時代区分を用いている。この4区分での時代区分は学界だけではなく、教科書にも採用されていることから、社会的に認められた時代区分となっている。しかし、近代歴史学を生み出したヨーロッパにおいては、「古代・中世・近代」という3区分での時代区分が用いられてきた。「近世」という時代区分の呼称は、「modern age」という英語の訳語であるが、ヨーロッパが3区分での時代区分を用いていることを考えれば、「modern」は「近世」ではなく、「近代」とする方が適しているだろう。だが、日本における社会構成のあり方が江戸時代とその前後の時代とで著しく異なることや、文化の変遷を踏まえれば、独自の時代として把握した方が、日本の歴史の展開をうまく説明できるという実情があり、明治以前と明治以後との2つに分けて考えられるようになった。その結果、明治以前を「近世」、明治以後を「近代」とする、便宜的な時代区分の方法が、いつのまにか定着したということである。

 

一方、海外から見た日本はどのように映っているのだろうか。『文明としての徳川日本』(芳賀徹編 中央公論社 1993年)では、「英語圏の日本研究の学界ではすでに早くから、Tokugawa Japanの呼称が定着している」と記されている。これは、日本の「近世」を捉える場合、「徳川日本」という呼称が、その本質につながっているということであろう。例えば、19世紀のイギリス文化を考えるときに、「ィクトリア朝」という呼称が、その輪郭を明らかにすることと同じである。さらに、日本の「近世」を、「early modern age」(英語)、「les premiers temps modernes」(フランス語)、「fruhe neuzeit」(ドイツ語)などに表記されるようになったことも踏まえれば、日本の歴史には中世と近代の間にもう一時代おくという認識が共通していると考えられる。また、歴史学の研究が進展する中で、西洋史においても各言語が指し示す時代区分に多少の違いがあるものの、4区分での時代区分を用いている場合もある。

 


 

細川幽斎(1534~1610年)

 

 

 

 

 

をしからぬ 身をまぼろしと なすならば 涙の玉の ゆくゑ尋ねん

 

 

細川幽斎

 

 

 

 

 文学史における「近世」の起点をいつに定めるかについては、様々な議論がなされてきた。しかし、和歌というジャンルに限定すれば、その萌芽は中世末の安土桃山期に認められると考えることができる。

 

 

 豊臣秀吉の時代になり、いわば「秀吉文化圏」ともいうべきものが形づくられた。その中で、細川幽斎ら豊臣秀吉を取り巻く武将たちの間で、作歌が盛んなものになる。木下長嘯子や小堀遠州、さらに武人ではないが、松永貞徳もそうした人たちの主要なメンバーであった。

 

 

 武人としての細川幽斎は、足利義晴、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と推移する5人の覇者の時代を生き抜いてきた。中世に生まれ、中世から近世へと生きた典型的な武人大名である。一方、文人としては雅の道を貫き、歌人・歌学者・古典学者として多くの業績を残し、公家や地下の歌人たちのうちに優れた門人を育てたのである。

 

 

 豊臣秀吉の周辺において細川幽斎の活動が活発になるのは、本能寺の変の3年後、1585年(天正13年)、細川幽斎52歳ごろ以後のことである。さらに3年後の1588年(天正16年)4月には、後陽成天皇の聚楽第行幸に催された歌会で中心的な役割を担うなどして、歌人・歌学者としての名声が高まるのであった。

 

 

 『細川家記』には、豊臣秀吉と細川幽斎の間柄を示す次のような記述が載せられている。

 

 

 

 

 1592年(文禄元年)正月16日、豊臣秀吉から細川幽斎のもとに1通の手紙が送られてきた。手紙は御伽衆、武田永翁の代筆である。

 

 

太閤さまは、(前年お亡くしになった)長男の鶴松君と先日、夢のなかでお会いになりました。(お目覚めになった時)お炬燵の上には涙が落ちて水たまりになっていましたのでこの1首をお詠みになりました。お読みになって御返歌を下さるように。

 

 

 

 

なき人の かたみの涙 のこし置きて 行ゑもしらず 消えはつるかな

 

 

 

 

 

 

――いまは世にない愛しい人が夢に見えた。しかし、その姿は行方も知れず消えてしまい、形見として私の涙が残るだけだよ。

 

 

そして、細川幽斎の送った返歌が冒頭の1首である。

 

 

 ――惜しからぬ老いの身を幻となすことができましたら、お涙の行く先に訪ねゆき、若君の魂のありかを尋ねましょうものを。

 

 

 この歌には、中国唐の白楽天の詩「長恨歌」と謡曲「楊貴妃」のイメージが重ねられている。細川幽斎は、自身を唐の玄宗皇帝に仕えた方士の姿に重ねたのである。方士は、皇帝の命によって楊貴妃の魂魄を常世国に尋ね求め、楊貴妃の生まれ変わりである玉妃に会って、玉のかんざしを与えられて帰るのであった。

 

 

 つまり、細川幽斎は、豊臣秀吉の悲嘆を玄宗皇帝の怨恨の情に重ね合わせて詠み、返歌として送ったのである。この1首によっても、歌人・古典学者として名声の高かった、細川幽斎の才気が窺えるだろう。細川幽斎の和歌は、このような古典文学を典拠とする歌作りにおいて優れているのである。

 

 

 ただ、同じ武人の出身で。38歳年少の木下長嘯子の歌風が、近世和歌の先駆を成したのに対して、細川幽斎は中世の伝統を色濃く受け継いだということができるだろう。

 

 

 しかし、細川幽斎はその歌学書『聞書全集』において、歌の拍子ということに言及している。「普通の言葉でも調子(リズム)が悪いと意味が通らないのではないだろうか。まして、31文字に限定された和歌において、その重要性は言うまでもないであろう」と述べている。これは、近世後期の主張に通じるものがある。

 


 

 

毛利元就(1497年~1571年)

 

 

 

 

 

あをやぎの いとくり返す そのかみは 誰がをだまきの はじめなるらむ

 

 

毛利元就

 

 

 

 

 ――青柳の枝が今年も芽吹き、まるで緑の糸をたらしたようだが、一体その昔の誰のおだまきから、この糸がひき出されるようになったのだろう。

 

 

 

 

 戦国大名毛利元就は、歌人としても当時から著名な人で、『春霞集』という歌集を残している。1497年(明応6年)、安芸国の毛利弘元の二男として出生した。兄興元の死後、家督を継承した甥の幸松丸の後見人となるが、9年後幸松丸も亡くなり、元就が毛利家を継いだ。

 

 

 

この頃、歌会を開くなどして和歌を愛好していた武将は、毛利元就の他に、個人の家集を残している人として伊達政宗や武田信玄、少し古くは太田道灌などがいる。また、まとまった家集は残さなくても、たとえば蒲生氏郷は陣中で古今集を読むほど和歌を好んでいた。

 

 

 

 和歌が公家のもとから一般の人々に解き放たれていく初期の段階として、室町時代の大名や武家への和歌の浸透があったことは言うまでもないだろう。そして、当然のこととして、彼らは和歌を独学で身につけたのではなく、ふさわしい師について学んだのである。その師として、普通には地下歌人あるいは、連歌師の存在が考えられている。しかし、大名の中には公家に和歌を学ぶ人たちもおり、和歌を仲立ちにして、戦国大名と公家が交わりを結んでいたのであろう。

 

 

 

 毛利元就はその代表的な1人である。毛利元就は、三条西実澄(晩年実枝と改めた)に和歌を学んでおり、その歌には三条西家の風が色濃くうかがえる。

 

 

 

 冒頭の歌は、『集外三十六歌仙』に載る。題は「柳」。芽吹く柳の枝を糸に見立てて「あをやぎのいと」と表現するのは、古今集以来の型である。緑の糸を甦らすことは年々の繰り返しをいい、その源に、麻糸を球状に巻きつけた苧環を連想した。

 

 

 

 苧環を詠んだ歌には伊勢物語三十二段に見える、昔親しかった女性に男が詠み贈った歌

 

 

 

 

 

いにしへの賤のをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

 

 

 

 

――もう一度あなたと愛し合った昔の2人の仲をとり戻す方法があったらよいのになぁ

 

 

 

 

 

 

があり、これらの古典を踏襲する歌づくりが毛利元就の和歌の特徴といえるだろう。特に、その古典の踏まえ方に独特の面白さがある。つまり、青柳の糸は、昔誰かが作った苧環からこうして引き出している、という見立ての着想に作者の工夫がある。

 

 

 

 三条西家は、中世に古今伝授の道統を伝えた家であり、古今集、伊勢物語は古今伝授の重要なテキストであった。三条西実澄には、さる武士の問いに答えたという歌学書1冊が著述として伝えられていて、多方面にわたり歌道を説いている。毛利元就は、三条西実澄から古今伝授を受けなかったが、同じ武将歌人で、毛利元就より40歳近く年少の細川幽斎は、後に師の三条西実澄から古今伝授を授けられ、その唯一の保持者となった。このことは、丹後田辺城事件ともからんで、あまりにも有名であるだろう。もし、毛利元就がもう少し遅く出生していたなら、細川幽斎の立場が毛利元就のものとなっていたのかもしれないだろう。

 

 

 

 三条西実澄は、毛利元就が死去した翌1573年(元亀3年)、毛利元就の和歌70数首に批評を加え、次のように述べている。

 

 

 

 

 

  (毛利元就のことを)天下の人たちは、武将として勇猛であることのみをいうが、風雅の場で遊ぶ志の深いことをいまだ知る人はいない。1つのことに精通した人は、物ごとに迷いということがない。

 

 

 

 

 

武将に歌の学問が必須であることを三条西実澄は言いたかったのではないだろうか。

 

 

 


 

伊達政宗(1567~1636年)

 

 

 

 

 

 

 

ささずとて 誰かは越えむ あふ坂の 関の戸うづむ 夜半のしら雪

 

 

 

伊達政宗

 

 

 

 

 

 

 ――閉ざさなくても誰がこの逢坂の関を越えることができるでしょうか。関所の戸を埋めるほどに降り積もる夜中の白雪よ。

 

 

 

 

 

 

 仙台藩主であった伊達政宗は、隻眼の武将として、あるいは家臣の支倉常長をローマに派遣してパウロ5世に謁見させた大名として有名である。だが、前回取り上げた毛利元就と同様に、武将歌人としてきこえた人である。家集『貞山公集』(275首)を残すほか、夫人に書き贈った「伊達の松蔭」や「海人の捨草」といった文章が知られる。

 

 

 

 

 

 伊達政宗は、室町時代末期の1567年(永禄10年)、伊達輝宗の長男として出羽米沢に出生、封地を継いだのち、会津などを征服して仙台藩を東北一の大藩の地位に押し上げた。一方で、京都の文化を摂取することに情熱を傾けた大名でもあり、その意味では代表的な文人大名でもあった。すなわち、桃山文化を仙台に移して、文芸を臣下に奨励する。特に、和歌や連歌に熱心で、連歌師猪苗代兼載とその子孫を代々、高禄をもって遇したことでも知られる。

 

 

 

 

 

 伊達政宗は、和歌を近衛信尋、烏丸光広という、当時の後水尾宮廷歌壇の最有力歌人に学び、宮廷和歌の優美な歌風を取り入れようとした。

 

 

 

 

 

 冒頭の1首は、『集外三十六歌仙』に載る1首である。『集外三十六歌仙』は、後水尾天皇の頃の地下歌人36人を撰び、1人1首を肖像画とともに収めるもので、その時代の地下の有力歌人を知ることのできる貴重な書物である。歌は、降りはじめると一夜にして真っ白に降り積もる逢坂関の雪を詠む。近江国蒲生・野洲が仙台藩62万石の領地の一部であったこともあって、あるいは京都の文化人たちとの交流のための上洛もあって、伊達政宗は、近江国と山城国の境に位置する逢坂関を、単に歌枕として知っていただけではなく、実際に何度か通過したのであろう。

 

 

 

 

 

 もっとも、大名が公家歌人に和歌の指導を受ける主な方法としては、今日でいう通信添削が専らであった。詠草を書き送り、そこに添削加筆されたものを返送してもらうのである。伊達政宗は、こうした公家歌人以外に、地下の歌人とも交渉があり、上洛して細川幽斎門の歌人、松永貞徳に会ったりもしている。さらに、京都の有力な地下歌人を招聘した。木下長嘯子の門人、山本春正はその例である。1636年(寛永13年)5月24日、仙台から伊達政宗の訃報を受けた松永貞徳は、

 

 

 

 

 

 

 

塩竈の 煙とならば 日本に 名はみちのくの ちがのうら人

 

 

 

 

 

 

 

という1首を京都から詠み贈り、その死を悼んだが、このことでも2人の親交が知られるだろう。

 

 

 

 

 

 ところで、伊達政宗は若き日、吉野山で豊臣秀吉と和歌を詠んだことがあった。1594年(文禄3年)2月25日、伊達政宗28歳のことである。徳川家康、前田利家とともに豊臣秀吉に随従した一行は、大坂から吉野に向かう。その様子は、小瀬甫庵の著した『太閤記』巻第十六「吉野花 御見物之事」に詳しい。

 

 

 

 

 

 豊臣秀吉は、例のごとく美麗な出立ちで、作り鬚に作り眉、歯に鉄漿をつけ黒くしていた。供奉の人々もまた美麗をきわめ、見物人が群集して眺めた。吉野では、六田の渡しを過ぎ山に分け入り、豊臣秀吉がこの時のために建てた茶屋で休んだ。食事などののち、千本の桜や、金峯山寺の後方にあるぬたの山などをめぐった。歌会は、その4日後の29日に催されたのであった。1人5首の歌を詠んだが、伊達政宗の第一首目の詠歌は次のようなものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「花のねがひ」

 

 

 

おなじくは あかぬ心に まかせつつ ちらさで花を みるよしも哉

 

 

 

 

 


 

木下長嘯子(1569~1649年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世世の人の 月はながめし かたみぞと おもへばおもへば ぬるる袖かな

 

 

 

 

 

木下長嘯子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 木下長嘯子は、豊臣秀吉の正妻ねねの甥としてよく知られている。武の家に生まれ若狭守少将、小浜城主となったが、関ケ原合戦の後、領地を没収され、髪をおろして東山などに隠栖して風雅の道、文の道に生きた近世初頭武士の典型的隠者である。そして、松永貞徳とともに地下和歌の第一人者としての名声をほしいままにした。その木下長嘯子は現代においても、和歌・和文ともにその脱俗的な革新性という点で注目され、高く評価されている。

 

 

 

 

 

 木下長嘯子と次回取り上げる予定の松永貞徳は、ともに細川幽斎に和歌を学び、60余年にわたって交友を結んだ。2人は、木下長嘯子が2歳年長とほぼ同年代で、豊臣秀吉の祐筆を勤めるなどしたという説がある松永貞徳と、豊臣秀吉の姻戚の木下長嘯子というように、共通する部分も多かったのである。

 

 

 

 

 

 しかし、松永貞徳の歌が穏雅平明で、伝統的なものであるのに対して、木下長嘯子の歌は、発想の自由さ、用語の新しさなどにおいて、細川幽斎の教えを継承しないばかりか、むしろ否定する“新奇な歌風”をもつというように、対照的であった。つまり、同じ細川幽斎門から出た地下の俊秀が、1人は師の教えを忠実に継承し、多くの弟子たちにこれを伝えたのに、もう1人は師の教えを否定し、自らの新しい文学世界を開拓するという道をたどったのである。

 

 

 


 冒頭の歌は、「月思往事(月に往事を思う)」と題する『集外三十六歌仙』に収められた一首で、月をみて過ぎ去った昔を思うという懐旧の歌である。木下長嘯子の門人・山本春正は1650年(慶安3年)頃、師の家集『挙白集』を編んだが、その雑部には結句「物ぞ悲しき」としてこの歌が載っている。

 


――月は世々の人が見つめてきた形見だと、思えば思うほどに物悲しくて涙で袖をぬらすことだよ。

 


 自分自身に悲しみがあるというわけではないのに、人々の悲しみが込められていると思うだけで、月にむかうと涙があふれてくると作者は言っている。「月みれば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里)の世界を、木下長嘯子の和歌世界に置き換えるとこのようになるのではないだろうか。大江千里のこの歌の字余りは、一字千金と評されているが、木下長嘯子の歌も第4句が「おもへばおもへば」の字余りを伴った繰り返しとなっている。「おもへばおもへば」の俳諧歌的な印象を受ける表現は、伝統和歌の世界ではまず用いられることがないものである。一読すると、無造作な印象を受けるが、それは無造作というだけのものではなかった。

 

 

 


 木下長嘯子の家集『挙白集』に対して、伝統和歌の側から『挙白集不審』という批判の書が出された。その書には、「異体俗語をよまるれば破戒偸言集、邪魔俗風集などいうべきをや」と激しい非難の言辞が連ねられている。

 


 しかし、批判をはるかに越えて木下長嘯子の歌風は、重視されてきた題材や用語の制限をうち破って、当時の歌壇を超越するものであった。それを「たぐひなき金玉のこゑ」(林葉累塵集)と評して最も良く理解した人は、晩年の門人・下河辺長流であった。また、それより前に、自らの庵(驚月庵)に師を招くなどした打它公軌や、歌道を最もよく継承した山本春正ら重要な門人が現れるのである。

 


 ただ、木下長嘯子は、特別に歌論の主張を持たなかったし、意図して和歌の革新を目指した人でもなかった。しかしながら、隠栖の地で公家や学者、地下歌人など当時の一流文化人と文事を共にし、自由に生きたその生き方そのものに革新性が内包されていたのである。

 

 

 


 

松永貞徳(1571年~1654年)



 



雲と見えば  くよひの月に  うからまし  よしや吉野の  桜なりとも

 


松永貞徳

 





 
近世初期において、町人階層の人たちは和歌というジャンルの文学をどのように見ていただろうか。それを知る1つの手掛かりとして、『町人考見録』(1728年=享保13年成立)がある。

 
松永貞徳の門人で米売買で財をなし、奢しの振る舞いでも知られた打田公軌は、町人ながら和歌の上で、冷泉為景らの堂上歌人たちと交流を持っていた。そのことを同書では、「町人の分として堂上の御歴々に交はり其身の本心を忘れ」と記し、町人の分際で堂上貴人と和歌の世界を共有することを非難しているのである。

 
しかしながら、享保頃までの町人の和歌観は、このようなものであった。彼らは、堂上歌人たちの世界に同化することを願う一方で、堂上歌人たちに絶対的な尊敬を持ってもいたのである。ここで取り上げる松永貞徳は、そういった云わば、中性的な思想と戦い、多くの弟子を育て、地下歌人・地下歌学の祖と称されるに至った人なのである。

 
松永貞徳の生きた近世初期は、前時代を肯定的に継承しようとする二条派の和歌の隆盛に始まり、やがて公家の歌人が中心であった和歌の世界に、新しい層が流入して地下の師匠が生まれ、和歌の革新が提唱されることになる。さらに、出版の普及によって、啓蒙的な典籍の出版が相次いで行われ、一般の人たちに古典が解放された。これと平行するように、詠歌人口が増大することになったのである。これは、新しい層が古い文化を取り入れて自分たちのものにしたことを示すものであり、新しい層が文化に溶け込む典型を示していると言えるのではないだろうか。

 
松永貞徳は、幼少から父・松永永種に和歌・歌学を学び、10歳頃には堂上歌学の権威である、九条稙通に師事したのをはじめとして、細川幽斎・中院通勝など、その著『戴恩記』に「師の数50余人」と記すほど多くの師を持ち、正統的な学問を広く学んだ。その業績は、和歌・狂歌・連歌・俳諧、そして歌学などに及ぶ。

 
松永貞徳の文芸活動の一端をみると、『なぐさみ草』などの注釈評論書を著し、北村季吟や望月長好などの歌学者を育てた。また、俳諧では、それを文芸の1ジャンルに引き上げ、貞門派を率いていたのである。さらに、70年の作歌生活において、膨大な数の歌を詠み、『逍遊愚草』『逍遊軒和歌』など、数種の家集を残している。冒頭の和歌は「月」と題する一首。

 
――雲と見えたならば、今宵の月にとっては辛いことであろう。たとえそれが美しく雲のように咲く、吉野の桜であっても。

 
松永貞徳の歌風は、あまりにも単純すぎると思われるほど穏雅平明にして伸びやかで、素直な発想を理想とした。掲出の歌は、そうした典型的な松永貞徳の歌とは少し異なり、眼前にない桜の花を思い浮かべるという、イマジネーションに富んだ歌となっている。

 
とはいえ、後世の批評において、松永貞徳の和歌の文学的価値は、師・細川幽斎や、門人・元政に及ばない。それでも、当時の世評は、圧倒的な地下和歌の第一人者として、木下長嘯子と並び称されたのである。

 
例えば、山本春正の編んだ歌集『正木のかつら』には、木下長嘯子の36首に次いで、松永貞徳の21首が収められている。山本春正は、初め松永貞徳の門人ではあったが、後に木下長嘯子の門に走ったために、北村季吟ら松永貞徳の門弟から攻撃を受けた人であったにもかかわらず、なお松永貞徳の和歌を黙殺することは出来なかったのであった。

 

 

 


 

小堀遠州(1579年~1647年)





見ても又  またもおもひを  駿河なる  富士の高嶺を  都なりせば

 

 

 

小堀遠州

 





 
旅中の生活や見聞をまとめた文章の中で、文学性の備わっているものを紀行文学と呼ぶ。日本で最初の紀行文学といえば、平安時代に紀貫之によって書かれた『土佐日記』ということになっている。では、江戸時代に作られた紀行文学はというと、小学生でも松尾芭蕉の『奥の細道』を挙げるだろう。さらに言えば、『奥の細道』は、俳諧の発句を詠み込んだ紀行文だが、和歌を詠み込んだ江戸時代の紀行文学で、なるべく古いものをご存知だろうか。小堀遠州の『辛酉紀行』を思い浮かべた方は、近世文学に精通されているのではないだろうか。

 
さて、ここでは、その『辛酉紀行』に詠まれた、小堀遠州の和歌を取り上げる。小堀遠州は、「遠州の綺麗さび」と茶風を評されるように茶人として、また、二条城や禁裏・仙洞御所の建築・造園に携わった有能な作事奉行として、または、遠州七窯などの作陶の指導者として、さらに伏見奉行としてなど、各方面に優れた才能を発揮した人であった。

 
しかし、小堀遠州については、文学者として語られることが少ない。それは、作品の文学性を問われるよりも、『辛酉紀行』のような近世紀行が、近世文学における、いわゆる「圏外文学」として、文学的に評価される機会が少なかったことによるのである。

 
『辛酉紀行』は、『奥の細道』より約70年早い、1621年(元和7年)に書かれたものである。小堀遠州43歳の9月22日に江戸を出発し、翌10月4日に京に到着するまでを、47首の狂歌風の和歌を含む、軽妙洒脱な文章で記している。この旅は、江戸幕府の作事奉行として、大阪城修築のために赴任するという、公務のための旅行であった。

 
冒頭の和歌は、4日目の9月25日、安藤広重の左富士の絵でも知られる吉原を過ぎて、富士山の山裾の河の辺に到着したところである。江戸からは35里を進み、京へは90里ほど残している。

 
渡守が「はやく船に乗れ」と言う。ここから富士川を船で渡るのだ。小堀遠州は、すっかり富士山にみとれて船に乗ろうとしない。そして、「この山を見ると、白雲が山を隠そうとするが、雲は裾にたなびくばかりで、雲を頂いた山頂は目も届かないほど高いのだ」と言う。

 
もくもくと煙を吐く富士山を仰ぐ時、その高さに驚嘆し、一種の畏怖の気持ちを抱くのであった。『伊勢物語』で初めて富士山を見た在原業平(と思われる主人公)が、「その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ね上げたらむほどして」と記しているような、高さに対する驚嘆や感動を、小堀遠州は近世的な表現を用いて語っているのである。「瞬時に変化する景色は言葉に尽くせないほどだ」などという。同行の友人が、「この山を京の都に移して、この人にと思う人に見せたいものだ」と言ったのを受けて、小堀遠州は、戯れて冒頭の歌を詠んだ。

 
――ひとたび見ることができても、なお再び見たいという気持ちが湧いてくる。駿河の国の富士山が都にあったらなぁ。

 
この歌は、新古今和歌集の「見ても又またも見まくのほしかりし花の盛りはすぎやしぬらん」を踏まえている。小堀遠州は、和歌を冷泉為満、為頼父子と木下長嘯子に学び、また『醒睡笑』の作者、安楽庵策伝ともしばしば和歌を取り交わした。正統的な古今・新古今調の歌を作る一方、このような狂歌風の洒脱な和歌の世界を楽しみ、『辛酉紀行』の歌はほとんどが狂歌風の歌で彩られていて、そこに、余人には見られない小堀遠州独自の和歌の地平が拓けているのが認められるのである。

 


 

中院通村(1588年~1653年)

 

 

 





夕まぐれ  うちちる雪も はしたかの  毛花にまがふ のべのをちかた

 

 

 

中院通村

 

 

 




 
――夕暮れ方になって空に雪が舞い、まるで鷹狩りに用いる鷂の白い毛が乱れ舞っているように見える野辺の遠景だよ。

 
江戸幕府が開かれて間もなくの1626年(寛永3年)、将軍徳川家光と前将軍徳川秀忠が入洛し、二条城で天皇以下の公家たちと華麗な饗宴の時をもち、初めて親しく交わったことはよく知られている。この時、朝廷側と幕府の間を取り持つ公家側の、非常に重要な職「武家伝奏」に就いていたのが、中院通村である。対朝廷の融和政策のために、江戸幕府がこの上洛をいかに重要視していたかは言うまでもなく、そのための実務レベルでの有能な担当者として、中院通村は朝廷側のみならず、幕府側からも期待されていた人物であった。なぜなら、「武家伝奏」は常時、天皇側近の公家の中から才能の卓越した人物2人が選ばれ、禁中一切のことに関係するのが職務であったが、その選出には幕府の意向も反映されていたからである。

 
中院家は代々文学的に恵まれた家系をもっていた。中院通村の父・中院通勝は『岷江入楚』を著した源氏学者として著名な人であったし、その曾祖父・中院通秀は中世に活躍した歌人で、牡丹花肖柏の兄であり、また、中院通勝の外祖父は三条西公条である、という風に。中院通村は、父・中院通勝から和歌、歌学の伝授を受ける一方、外祖父である細川幽斎からも和歌を学んだが、2人が同じ年に没するという不幸に見舞われた。その後は、自ら後水尾天皇の和歌に意見を述べ、さらに天皇の母である中和門院に源氏物語を講義し、堂上歌人たちを指導するなどして、近世前期宮廷歌壇の指導者として位置したのであった。
 
このように、中院通村が寛永時代の後水尾院歌壇の指導者であったことに対応するかのように、中院通村の孫の代に至って中院家の伝統はますます輝いた。孫の中院通茂は、元禄時代の霊元院宮廷歌壇の指導者となり、歌道鍛錬によって幕府から200石の加増を受けた。つまり、寛永と元禄という近世の宮廷和歌における2つの代表的な時代をリードしたのが、中院通村と中院通茂であった。
 
冒頭の歌は、家集『後十輪院集』より、「鷹狩」と題されたものである。夕光の天空に舞う花のような雪の白さに、鷂の白い毛のイメージが重ねられ、幻想的な美の世界が現出されている。1首が絵画的美によって完結しているのは、中院通村の和歌の特徴である。その美しさは、雪を羽毛と捉えるイマジネーションによって詠まれるものであり、経験的知識を超越するものであるともいえるのではないだろうか。

 
中院通村は、武家伝奏を務めていたので、生涯に少なくとも9回は江戸に下っている。これは、寛永期の公家として、かなり多い旅行回数である。したがって、家集には羇旅の歌も必然的に多く収められているのである。それでも、「たれとなく草の枕をかりそめに行あふ人も旅はしたしき」(旅友)といった心情を素直に表現した羇旅の歌には、中院通村的イマジネーションの世界や表現の鮮明さが現れてはいないが、「いせの海やかひある波の光かなよわたる月もきよき渚に」(海月)のような羇旅の歌には、波の光と月の光とを対照させた幻想的光彩の世界を歌い上げて、中院通村的である。

 
中院通村の和歌のイマジネーションを考える時、単に旅行回数が多いということだけではなく、忘れてはならないことがある。それは、44歳から6年間の江戸幽閉生活である。武家伝奏の職にあった中院通村は、気骨のある公家でもあり、後水尾天皇譲位に絡んで天皇の意志を優先し、「吾は天子の臣也、関東の臣にあらず」と公言して、幕府の期待に背き江戸に止め置かれた。関東武家という、京都公家社会とは異次元の論理と発想と美的感覚をもつ人々との絶えざる交渉があり、その間自己と異なるそれらの理解が要求されたのである。そのことは、中院通村の和歌に1つの影響を及ぼしたのであろう。

 

 


 

後水尾院(1596年~1680年)  <前編>

 

 

 





時しありと  聞くもうれしき  百千鳥  さへづる春を  今日は待ちえて

 

 

 

後水尾院

 

 

 





 
今回は初めて前後編で取り上げようと考えている。前編だけでなく、次回の後編も合わせてご覧頂ければ幸いである。

 
江戸時代(近世)の265年間で、皇位に就いた天皇は14人(うち2代は女帝)を数えるが、中でも近世最初の天皇は後水尾院である。

 
私たちが近世和歌史を紐解く時、まず後水尾院を中心とした堂上(公家)歌人たちの間で、作歌が非常に盛んな時代があったことに気づかされるだろう。後水尾院とその廷臣たちが、何故それほどまでに作歌に情熱を傾けたのかについては後編で紹介することとし、前編では後水尾院の和歌を通して、堂上和歌の世界を感じて頂きたい。

 
冒頭の和歌は、「試筆」と題する。すなわち、書き初めである。1626年(寛永3年)の詠で、後水尾院はこの前年、30歳の12月14日、叔父に当たる智仁親王から古今伝授を受け、その喜びをこの一首に託したのである。

 
――さあ、時はいまだ、と聞くのはとても嬉しいことだ。さまざまな鳥が囀ずるこの春を今日は待つことができて。

 
古今伝授の世界で、「三鳥の大事」の1つとされる「百千鳥」を詠む。つまりこれは、「私は昨年、古今伝授を受けました」という、高らかな宣言に他ならない。春の訪れに対する諸鳥の喜びと、ついに歌道の頂点を究めたという作者の喜びが共鳴し合い、二重になって響き合うのである。

 
ところで、古今伝授は、14、15世紀頃に歌学教育を目的として生まれたもので、古今集をテキストとして、読み方・語句の解釈などの講義が行われていた。しかし、さまざまな経過を経たのち、後水尾院はさらに発展させて、御所伝授という新しいスタイルを完成させ、これが近世堂上和歌の基盤となった。それは、詠歌と歌学の両立を目指すものであった。

 
後水尾院は、智仁親王からの伝授を実子の後西天皇に与え、後西天皇はそれを実弟の霊元天皇に伝えた。陽明文庫に残される『古今伝授日記』によると、例えば1680年(延宝8年)5月7日の授受の様子は、次のようなものであった。陪聴を許された近衛基煕が記す。

 
午前7時頃、私(基煕)は直衣(平服)に冠を付けて参内、霊元天皇はお休みになっておられ、午前9時頃、後西上皇が、程なく霊元天皇もお出ましになり、ご講義が始まる。ほかに日野弘資、中院通茂が陪聴を許される。昨日と同じく、午前11時頃、ご講義が終了、日野弘資、中院通茂は退出し、私は不審点のご質問を拝聴する。午後1時頃、退出。帰宅の後、講義を整理する。枚数は30枚、午前2時頃までかかる。今日のご講義は、古今集「春歌下」。今日から毎日行水をする。

 
1回の講義は2時間、紙数30枚に及び、帰宅後も深夜までノートの整理をするなど、非常に真摯な態度で臨んでいたのである。

 
こうして伝授を受けた人には、次に伝授する権利が生ずる。霊元天皇からは、臣下の中院通躬へ、さらに烏丸光栄、有栖川職仁へと御所伝授が継承されていく。

 
ところで、堂上和歌における古今伝授は、後水尾院の伝授に一本化されたわけではない。和歌に堪能な家には、その家々に伝わる古今伝授が存在したことも忘れてはならないことである。中院通躬は霊元天皇からの伝授以外に、父・中院通茂からも相伝した。それは、4代を遡る中院通勝の時に、智仁親王と共に細川幽斎から伝授されたものである。この時の経緯は、丹後田辺城事件として、歴史的にもよく知られているのである。

 

 

 


 

後水尾院(1596年~1680年) <後編>

 

 

 





 

芦原や  しげらば繁れ  荻薄  とても道ある  世にすまばこそ

 

 

 

 

 

後水尾院

 

 

 





 
前編で記したように、近世和歌史は、寛永期(1624年~1644年)の後水尾院宮廷の歌人たちの活躍によって、その第1ページが飾られると言って過言ではないだろう。文化史的に言えば、この時代は、後水尾院を中心とする「寛永文化」の時代である。

 
この期の宮廷の歌会は、晴れの(公的な)歌会だけでも、およそ月2回、その他、褻の(私的な)歌会や奉納の歌会などが催されていた。また、源氏物語や伊勢物語などの古典文学の講義も、宮中でかなり頻繁に行われていた。1620年(元和6年)6月に、徳川秀忠の娘・和子(東福門院)が入内し、後水尾院の宮廷に莫大な徳川家の資金が流入したことも、寛永文化の開花と無縁ではない。

 
しかし、和子の内助の功は、ただ単に経済的な面のみではなかった。自身はほとんど歌を詠まなかったが、和歌の道に励んだ者には報奨を与えるといった形などで、後水尾院のために細やかな心遣いをしている。例えば、のちに有力歌人となる17歳の日野弘資は、東福門院から歌会の詠歌とその清書に対する褒美として、巻物や唐織物小袖などを賜っているというように。

 
しかし一方で、和子入内は紛れもない対朝廷政策の一環であった。したがって、朝廷に対する幕府の干渉は、ますます厳しくなっていかざるをえなかった。これより6年前、幕府は「禁中並びに公家諸法度」を定め、その第1条に天皇は学問すなわち和歌に励むよう記すなど、天皇の行動を直接監視するという方針を示した。

 
やがて、後水尾院の危惧していたであろう事態が引き起こされる。1627年(寛永4年)の紫衣事件である。元来、朝廷が持っていた高僧に紫衣を与える権限を、諸宗法度を根拠にして無効と決めつけた幕府は、すでに後水尾天皇が大徳寺の僧・沢庵宗彭らに与えていた紫衣を剥奪したのであった。朝廷に対する幕府の権力の優位をまざまざと天下に知らしめた事件であった。冒頭の歌は、この時の御詠である。

 
――葦の生えている原(江戸の地)は、荻や薄(徳川家)が勝手に繁ればよい。どのように考えても、聖人の道が行われている世に住んでいるとは考えられないから。

 
天皇は、突如として一天万乗の位を退く。踏みにじられた権威を回復する手立てが他にあっただろうか……。こうして800年ぶりの女帝、8歳の明正天皇が生まれたのである。

 
以後、52年間院生を敷いた後水尾院は、ある日、近衛基熙(院の孫にあたる)に「朝廷の大事は歌の道にある。ことさらに注意して歌道にいそしまねばならない」ともらした。この時、後水尾院の心の中にあった歌道とは、何を指していたのだろうか。前に述べたように、禁中並びに公家諸法度は、天皇を政治から遠ざけ、和歌に専念させようとするものである。和歌や文学は、政治の対極にあるものと東国の武士たちは考えたのである。

 
しかし、果たしてそうであろうか。江戸時代、書店の目録で和歌の書に分類されていた源氏物語は、元々は歴史や政治を学ぶためにも読まれた書ではなかっただろうか。そこから人道を知り、帝道を知るために。少なくとも、後水尾院はそのように考えたのである。歌学を修めることによって、おのずからその道が開かれていくということを、後水尾院は天下に知らしめようとしたのである。つまり、文学によって政治が変えられていくのだということを確信し、そのために後水尾院らは大変な情熱を和歌と歌学に注ぎ込んだのであった。

 


 

元政(1623年~1668年)





 

里の犬の  あとのみ見えて  降る雪も  いとど深草  冬ぞさびしき


 

元政

 

 

 





 
近世の歌人たちが、もう1つの韻文学である漢詩を作ったり、または逆に漢詩人が和歌を詠むことはあったのだろうか……。答えとしては、近世初期から行われており、むしろ初期から中期にかけての方が、その後よりも云わば普通に、そのようなことがなされていたのであった。

 
元政は、その早い時期の代表的な1人としてよく知られた人である。漢詩文集として『草山集』31巻を著す一方、歌集として『草山和歌集』1巻を残している。元政は、石川丈山と併称される性霊派の詩人であるとともに、歌人としても高く評価される人なのである。冒頭の歌は、歌集の中の1首で、「雪ふりつもりたるあした」と題する。

 
――里の犬の足跡だけが雪の上に見えて、降る雪もいよいよ深くなっていく深草の里の冬は、ひとしお寂しい。

 
元政は、33歳の時、洛南、深草に自身の仏道修行のために称心庵を営み、学問を究め著述をなして、1668年(寛文8年)、46歳で没するまでを過ごした。現在の深草瑞光寺である。

 
元政が移り住んだ頃は、人里離れた深草村に冬ともなれば、訪れる人もなかったのであろう。庵の周囲を埋めつくした真っ白の雪。しかし、よく見ると白い雪の上に人里からやって来た犬の歩いた跡だけが、点々と連なっているではないか。そこに一抹の寂しさを覚えた元政は、誰か訪ねて来て欲しいという気持ちが湧いてくる。

 
元政は、『扶桑隠逸伝』という世を遁れ棲む人々のことを記した書物を著した人であり、自身も隠逸の人であった。また、『草山和歌集』を見ても交友はそれほど多くはない。そのような人でも、人が訪ねて欲しいという思いはある。それが人情である。

 
続近世畸人伝によると、元政は詩歌を作る時の心構えを、日記に「1首よみ出ては一躰の仏像を造る思ひをなし、1句を思ひよりては秘密の真言を唱ふるにおなじ」と記していたという。宗教心に基づく純粋な心情が、元政の和歌に投影されていることが指摘されているが、それは明確な元政の意思でもあったし、そこが松永貞徳の門下では異彩を放っている点でもあった。

 
また、元政は和文にも優れていた。37歳の1659年(万治2年)8月、前年に亡くなった父の遺骨を身延に納めるため、同地に赴き、その和文紀行『身延道の記』を記した。それは温雅な和文として知られるとともに、親孝行の名を高くした紀行文であった。

 
宗政五十緒氏の「元政」より、少し元政の出自を紹介したい。

 
元政の長姉・春光院は、元政より22歳年長であった。春光院は、近江の彦根藩主である井伊直孝の側室となって、大老となった嗣子直澄を生んだ人である。

 
1623年(元和9年)2月23日に、いわゆる新在家と称される京都桃花坊(堀川の東、一条から二条の間)の石井家に生まれた元政が8歳の時、作法見習いのために彦根に赴き、13歳で江戸の井伊直孝に出仕したのは、姉の縁によってである。石井家は父・元好の代まで公家に出仕する官人の家柄であったが、春光院を通路にして井伊家と繋がりを持つのであった。

 
元政は、学問僧としても多くの著述を残した。元政の学問の礎となった蔵書類は、深草瑞光寺に伝えられていて、毎年3月18日の元政忌には遺宝展が開かれている。

 

 

 


 

下河辺長流(1627年~1686年)





あまつ星  おちて石とも  ならぬまや  しばし河辺の  蛍なるらむ


 

下河辺長流

 

 

 





 
元禄期は、和歌の世界において、堂上と地下の対立がきわめて明確になった時期である。和歌を詠む新しい層として出現した地下歌人たちが、堂上和歌の秘伝説などを厳しく攻撃し、和歌に自由な新風を吹き込んで詠もうとして、その革新運動を具体的に推し進めたのである。

 
文学における、このような思い切った自由な表現を求めようとする気運は、和歌という雅文学の世界のみにとどまるものではなかった。俗文学の世界でも、元禄期に至って、かつて存在しなかった新しいスタイルの小説、浮世草子が井原西鶴によって創作されるのである。

 
その元禄の文学革新において、和歌の領域における重要な人物が、下河辺長流である。下河辺長流は、以前記した木下長嘯子の晩年の門人であり、師の良き理解者でもあった。

 
下河辺長流は、和歌史において非常に重要な仕事をなし遂げた。それは1670年(寛文10年)、46歳の時の『林葉累塵集』10巻の刊行である。『林葉累塵集』は、民間人の和歌千余首を集めて刊行したものであり、下河辺長流の師・木下長嘯子と、無官ながら歌人・歌学者として名を知られていた下河辺長流自身、それに親友の僧・契沖以外は、全て名も無き一般の人々であったからである。時は和歌革新の気運が高揚しつつあったとはいえ、庶民の和歌に注目し、それを出版したという事実は、その後の和歌史に大きな意味をもつものであった。さらに人々の期待に応えて、下河辺長流は55歳の時、同趣向の『萍水和歌集』20巻を編集した。

 
このような激しい和歌革新を行動で示した下河辺長流であるが、その和歌は、師ほどの超越した革新性を獲得するには至らなかったと評価されている。冒頭の歌は、1681年(天和元年)に自ら選んだ『自撰晩花集』に載る1首で「蛍」と題する。

 
――天の星が地上に落下してきて、隕石とならない間のしばしの輝き、それが川辺に光っている蛍なのだろう。

 
この歌は、下河辺長流の代表歌として良く知られている1首である。夏の夜の闇に微かな光を放つ蛍火……。その神秘的な美に対する作者の感動が、上の句の想像性に富んだ表現となって結実しており、いわゆる理知に偏った古典和歌の世界とは異質である。しかし、用語や発想において、木下長嘯子のもつ脱俗的な革新性には及ばなかったのである。また、このような歌もある。


み吉野の  山人とても  何かあらむ  ただこの花の  ひと枝にこそ

 
――吉野山の山人は、花の季節にはいつも日本第一の桜の花に覆われた光景を見るであろう。しかし、それを羨ましいとは思わない。私は、ただ一枝であっても、この花の眺めをこそいとおしく思う。


 
いわば、知足の心というべきであろうか。この歌は、莫逆の交わりを結んだ契沖から、庭の桜を手折って届けられたのに返した1首である。契沖は、下河辺長流より16歳年少であった。万葉集研究において、つとに名高かった下河辺長流が、水戸家から万葉集の注釈を依頼されつつも、完成を見ることなく60歳で没した後、契沖がこれを引き継ぎ『万葉代匠記』に完成させた。下河辺長流の学説は、そのまま著書に明記しており、そういう契沖の記述姿勢に、下河辺長流に対する敬意が伝わってくるのである。

 
下河辺長流は、常に批判的で権威に捕らわれず、門人には大阪の富豪も多くあったが、富貴権門に媚びない、隠逸者風の人であったことを『近世畸人伝』は伝えている。

 

 

 


 

契沖(1640年~1701年)





心ある  人に一夜の  宿かりて  なるるも悲し  明日のふるさと


 

契沖

 






 
和歌を含めて、古典文学の表記は、現代でも歴史的かな遣いを用いるのが一般的である。

 
太平洋戦争の後に、現代かな遣いが施行されるまでは、歴史的かな遣いが日常の正当な表記法として用いられていた。ところで、歴史的かな遣いを、誰が、いつごろ定めたかというと、今回取り上げる契沖が、1693年(元禄6年)に研究成果をまとめて『和字正濫鈔』として著したものによるのである。

 
後年、本居宣長らが、これに補正を加えたものの、この書は、それまで用いられていた定家かな遣いの誤りを正した、国語学史上の重要な書として位置付けられている。

 
それまでの権威の象徴ともいうべき、定家かな遣いを否定したことからも窺い知れるように、契沖は中世以来の古典の、師承伝授的な学問のあり方を強く否定した学者であった。すなわち契沖は、「この書を証するには、この書より先の書をもってすべし」(『万葉代匠記』)という、文献学的方法についての明確な意識を持ち、精緻な研究をなしたのであった。

 
前回記したように、契沖は下河辺長流と親交を結んだ。2人は1662年(寛文2年)、契沖が23歳頃に知り合い、下河辺長流が没する1686年(貞享3年)までの間、交際が続いたのであった。しかし、下河辺長流が和歌革新に力強い行動力を見せたのに対して、契沖はそれほどでもなかった。契沖は、下河辺長流とはまた違った和歌観を持っていたのである。

 
冒頭の歌は、契沖の歌集『自撰漫吟集』羇旅の部に、「旅のうたの中に」と題する26首の中の1首である。

 
――情け深い人に一夜の宿を貸してもらい、いろいろに歓待してもらったが、私は旅の身だから明日には別れて、この宿を出ていかねばならず、この宿が私のふるさとになってしまう。そう思うと、今宵なれ親しむことが、かえって悲しく思われるよ。

 
契沖は、真言宗の僧侶であったので、行者として旅の生活をした。羇旅の歌には、旅の生活の実感が良く表れている。この歌は、そのような1コマである。野宿を免れたばかりか、主は様々にもてなしてくれる。一夜の宿を、提供する側とされる側の間に通い合う心情の温もりが、纏綿とした知的で細やかな情緒となって詠み出されている。

 
契沖の歌風の特徴は、この歌のような繊細さと知的な情趣とにあるのではないか。結句「明日のふるさと」の語は巧みで、ここに、生涯に6000首以上の歌を残した多詠歌人の、巧まざるして巧みな力量が感じられるだろう。

 
契沖は、和歌について「物を興じてさるはかなき事をもよむが歌の道はをかしきなり」(物事を面白がって、どんなとるに足らないことも詠むところに和歌の魅力がある)と述べて、その和歌観を示している。つまり、和歌を1つの文学として見て、それ以下でも、それ以上でもないと考えるのである。契沖は、このような歌も詠んでいる。


不二の嶺は  山の君にて  高みくら  空にかけたる雪のきぬがさ

――富士山は山の王者であって、山頂の白雪は、その高御座の上にかざした絹がさである。


 
富士山を数ある山々の王者に、頂く白雪を天子の御座にさしかける長柄の絹張りの傘と見立てる。白をキーワードにしたノーブルなイメージと、ある種のユーモアをもって富士山を捉えている。

 
学者としての契沖は、中世からの伝統を打ち破り、万葉集研究、その他に不朽の業績を残した。しかし、和歌においては、特に革新を強調せずに、新古今風の繊細で知的な世界を情趣的に詠んだ。

 

 

 


 

小野寺丹子(生年不明~1703年)





夫や子の  まつらんものを  いそがまし  何かこの世に  おもひ置くべき


 

小野寺丹子

 

 

 





 今回は、私の故郷・兵庫県赤穂市に関わる人物を取り上げたい。

 

年末、12月14日は、1702年(元禄15年)に赤穂義士が、江戸の吉良義央邸へ討ち入った日である。大石内蔵助をはじめとする四十七士の人物や経歴が詳しく研究されているわりには、事件によって、大きな運命の転換を強いられたであろう義士の家族たち、とりわけ女性については、語られることが少ないようである。

 
小野寺十内秀和の妻・小野寺丹子は、義士を巡る女性たちの中では、少数派の京都の女性であった。小野寺丹子は灰方氏の出身である。灰方氏は京都の古い家で、江戸時代は洛西、大原野にその一族が住んだ。また、小野寺丹子の兄・灰方藤兵衛は、赤穂藩の150石取りの侍で、19歳の小野寺丹子は、同じように150石取りの小野寺十内秀和の妻となった。

 
小野寺家は、100年近くを赤穂の浅野家に仕えた家で、最も忠心の厚い家臣の1人であった。小野寺十内秀和は、京留守居役を務めていた。公家との付き合いや、国の物産の販売、京都の物産の購入などをこなさなければならないこの職には、温和で洗練された人柄が求められる。小野寺十内秀和は、かねてから和歌を京都の歌人・金勝慶安に学んでいた。細川幽斎―松永貞徳―金勝慶安と続く、二条派地下和歌の正統な流れをくんでいる。京の和歌を学び、京の文化を身に付けていた主家思いの小野寺十内秀和にとって、京留守居役は、相応しい職であったのではないだろうか。

 
さて、運命の1701年(元禄14年)3月14日、江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央を切りつける。この時、小野寺夫妻は、東洞院仏光寺西入ルの赤穂藩京都藩邸にいた。2人にとって、まさに人生の暗転であっただろう。

 
1年9ヶ月の後、小野寺十内秀和たちは、首尾よく討ち入りを果たした。さらに、およそ50日後の2月4日、身柄を預けられていた細川邸で切腹する。死の前日、姉の二男で自身の養子に迎えていた、幸右衛門秀富とともに切腹しなければならない心境を、小野寺十内秀和は歌に託した。


迷はじな  子とともにゆく  後のよは  心の闇も  はるのよの月

――我が子と共に旅立つ心には迷いもなく、晴れた春の夜の月のようです。


 
夫と息子を亡くした小野寺丹子は、本国寺の塔頭了覚院に籠り、食を断ち、命を終えたという。あるいは、自刃とも『近世畸人伝』に記されている。冒頭の和歌が辞世である。

 
――夫・十内秀和や、子・幸右衛門が待っているので急ぎましょう。何かこの世に思い残すことはあるでしょうか、何もありません。

 
小野寺丹子の歌は、江戸時代地下和歌の典型的な歌風を示している。古今集を踏まえた正統的な詠み口に、小野寺丹子の歌人としての技量の高さが認められるのであろう。


筆のあと  見るに泪の  しぐれ来て  いひ交すべき  言の葉もなし

――あなたのお手紙を拝見するにつけて、抑えようもなく涙が流れます。もはや、あなたと私との間では、お約束を交わすことさえできないのですね。


 
松の廊下の事件から切腹までの、およそ2年間を離れて暮らした小野寺十内秀和と小野寺丹子は、手紙のやり取りで夫婦の絆を強めていったかのようである。12月12日付の小野寺十内秀和の手紙には、小野寺丹子の送ったこの和歌を、繰り返し繰り返し吟じて、涙が止めどなく溢れたことなどが、ありのままに述べられており、読む者の心を打つだろう。

 
小野寺丹子の墓は、下京区岩上通万寿寺の智光院の門前を南下した道に面し、現在は日蓮宗林昌院の墓地となっているところにある。碑面には「梅心院妙薫日性信女」とある。

 

 

 


 

霊元天皇(1654年~1732年)





人よなどなかなかつらき馴れゆかば思ひなくてもありぬべき世に


 

霊元天皇

 

 

 





 
――人はどうして恋しい人と馴じめば馴じむほど、かえって憂いに沈むのでしょうか。人と人が親しくなれば物思いなどなくてもよいはずのこの世にあって。

 
近世後期に、京都町奉行所の与力を勤めた神沢杜口の著した随筆『翁草』は、京都に起こった事件や風俗を、公家・武家・町人にわたって記し留めた、京都の第1級の随筆である。

 
神沢杜口は、その『翁草』の中で霊元天皇について、次のように述べている。「霊元天皇が敷島(和歌)の道にたけておられることは、代々の帝に比べることができないほどだ。上にこのような方がいらっしゃるので、自然と歌の道も栄えて、有名な武者小路実陰卿や中院通躬卿など歌道の達人が多く出て、和歌の姿は昔に恥じることなく、中国の盛唐の時代にそっくりである」

 
神沢杜口は勿論、霊元天皇に見えることはなかった。また、神沢杜口は俳人でもあったので、京都の俳壇については明るかったが、歌人たちと特に親しく交わったわけではないようである。それでも自らの見聞か、或いは書かれたものを通してか、神沢杜口の耳目にも霊元天皇と、その廷臣たちの活躍ぶりが、盛唐に比して語られ、届いていた。

 
霊元天皇は、後水尾天皇の第19皇子として1654年(承応3年)5月25日に誕生した。1663年(寛文3年)、わずか10歳で即位、1732年(享保17年)8月6日、79歳で崩御した。即位の年に

み雪ふる山もかすみて千里まで光のどかに春や立つらん

と詠むほどの、並外れた歌才を持ち、父帝・後水尾院は、その才能を早くから認めていたのであった。

 
霊元天皇は、『乙夜随筆』という随筆を自筆で残しているほか、『作例初学考』などの歌学書も著している。では、廷臣に対する実際の和歌の教えは、どのようなものであったのだろうか。写本で伝わる『霊元法皇勅点諸卿詠草和歌集』から、その具体例を取り上げる。歌は、霊元天皇の歌壇で最も重い歌人と言われ、霊元天皇自らも「逍遙院(三条西実隆)以来の歌よみ」と称えた、武者小路実陰の詠んだ「顕恋(あらはるるこひ)」である。

人知れぬ思ひとは何なげきけんなべて浮名のかくれなき

――ひそかな思いなどと、どうして嘆くのですか。すべて浮名が広く知れわたっている身であるのに。

 
霊元天皇の添削は下線部分に施され、次のように改めた。

身ひとつのおもひとは何なげきけん今は浮名のかくれなき世に

 
「人知れぬ」を「身ひとつの」と置き換えることによって、表面的な意味上の相違はほとんどないだろう。しかし、「恋の思い」と、その思いを抱いている作者自身の「わが身」をより緊密に結び付け、1首を具象的に構成するのは添削後の方ではないだろうか。「なべて」を「今は」、「身に」を「世に」としたことも、これに呼応しているだろう。

 
霊元天皇の歌は、言葉と言葉の緊密度が高いことが、1つの特徴である。冒頭の1首は、御製集『桃蕊御集』から、題は「馴恋(なれしこひ)」である。「馴れる」という語を1首の中において、恋と一般の人付き合いとの2つの次元から捉えようとする、新しい試みの1首である。

 
霊元天皇が父帝・後水尾天皇を敬愛していたことは、修学院離宮を春秋に訪ねていたことからも知られる。それは、1721年(享保6年)から1731年(享保16年)、霊元天皇68歳から崩御の前年までのほぼ毎年であった。そして、その離宮を慕う心がどれほどのものであったか、和文御集『元陵御記』がまざまざと伝えている。

 

 

 


 

井上通女(1660年~1738年)





しら雲やながむるかたをへだつらん心はおなじ空にかよへど


 

井上通女

 

 

 





 『江戸日記』の1首である。
 
――物思いして空を眺めやる2人の心を、白雲が隔てるのでしょうか。お互いの心は、その空に通い合っていますのに。

 
1660年(万治3年)、四国讃岐の丸亀に生まれた井上通女は、近世前期の女流の歌人・漢詩人として注目される人である。

 
井上通女は、丸亀の京極藩の藩儒となった父・本固の教えを受けて、幼少から和漢の古典に精通した。同時代の人、時習斎の記した行状によると、井上通女は穎悟類なく、一を聞いて十を知り、7・8歳頃から物語草紙類を読破し、六経四書を習った。さらに和歌・漢詩を毎日作り、和歌は京の名家の添削を受け、日に50首、100首と詠んだという。伴蒿蹊も後年『近世畸人伝』に、「幼きより書をよみ、詩歌ともに成人にまさる才女であった」と残している。

 
井上通女の英名は、藩内に知れわたっていた。そこで、藩主の母公・養性院は、1681年(天和元年)の秋、22歳の井上通女を江戸三田の藩邸に呼び寄せる。以後8年間、井上通女は養性院の侍女として江戸に暮らした。

 
井上通女が著した『東海紀行』1717年(享保2年)刊は、江戸に赴く道中を記したもので、和歌と漢詩を読み込んでいる。江戸での出仕が不安なせいか緊張の様子も読み取れ、8年後に帰国する時の紀行文『帰家日記』とは好対照となるだろう。ただ、『帰家日記』は、京都の町中を通ることなく、大津から伏見、淀の川舟に乗るという行程を進んだが、『東海紀行』は、三条河原町で宿をとり、町中で3泊した。

 
その様子を少し紹介したい。11月20日、伏見から鳥羽を経て京都に入る。夕方であった。紅葉の季節は過ぎていたであろうが、井上通女の目には木草の色までもが珍しく思われるのであった。「東寺の雁塔のありさまも鮮明で、この塔が世に有名なのはもっともだ。美しく立ち並んだ家々の軒の端は端正に整い、出入りする人たちも誇り高く賑やかである」と、井上通女の目には都人の様子が印象的に映ったようである。

 
井上通女は、京都に知人が少なくなかったようだ。この時、数人の知人が宿を訪ね、「この機会に物見などなさるのは、よいことです」と誘う。しかし、井上通女は、この先の旅程の長さを思い、しかも心は江戸にあると言って、知人の勧めを断る。旅行中の井上通女の心を覆っていた、ある種の重い気持ちは、近江の水口で作った次のような漢詩にも表れている。


 
鶏鳴旅店促行装
 
残月含寒映暁霜
 
長路漫々何日尽
 
朝々暮々是他郷

 
鶏鳴、旅店に行装を促す
 
残月、寒を含んで暁霜に映ず
 
長路漫々として何れの日か尽きん
 
朝々暮々是れ他郷

 
――宿の一番鶏が夜明けを告げ、旅支度を急がせる。有明の月光が寒々と朝霜を照らしている。この先、果てしない旅程は、いつ終わるとも知れない。来る日も来る日も異郷にある。


 
こうして江戸に着いた井上通女は、養性院の代筆や宿直をして物語をしたり、草紙を読み聞かせたりという、侍女としての日々を送る。また、他の侍女に論語を教え、薬を調薬することもあった。『江戸日記』には、そうした日常生活を描いている。

 
冒頭の歌は、江戸生活のある日、故郷の妹・お円から送られた歌に返したものである。井上通女の歌の師は明らかではないが、二条派の伝統を踏まえた歌風は、古典的で優美である。ただ、やや漢文的口調の窺える歌もある。しかし、江戸初期において、詩文日記の領域に独自の作品を残した井上通女の才能は、高く評価されても良いのではなかろうか。

 

 


 

荷田春満(1669年~1736年)





霜こほりいささむら竹さらさらに霰ふるよは夢もむすばず


 

荷田春満

 

 

 





 
江戸時代の中頃に1つの学問が、新しく体系立てられている。それは、『古事記』や『万葉集』といった、日本の古くから伝わる書物を研究して、日本固有の文化と精神を明らかにしようとするものであった。これを「国学」(または和学、倭学、古学ともいう)と呼び、その研究者を国学者、または和学者と呼ぶ。

 
その学問の特色を簡単に説明する。国学とは、古典をその時代のままに研究しようとするものであり、研究の方法として文献学的な手法を用いる。つまり、「この書(物)を証するには、この書(物)より先の書(物)をもってすべし」(万葉代匠記・契沖著)という姿勢で、日本古典を研究しようとするのだった。

 
この新しい学問の思想的基盤を築いたのが、荷田春満(羽倉春満)である。荷田春満は、1669年(寛文9年)、京都伏見の稲荷大社の神官の家に生まれた。その性質、俊敏であったという。特別に師とする人を持たず、自分の家の学問を礎として、さらに家学を磨き、律令や国史、万葉集、古今集などをはじめ、日本の古典籍を広く読んだ。和歌においても、「羽倉家に相伝される後陽成天皇からの教えがあるので堂上公家に学ぶことは出来ないのだ」と、自ら羽倉駿河守に送った書に記しており、中世以来の家学に対する荷田春満の、強い責任感の一端を垣間見るのである。

 
また、荷田春満は生涯に数回、江戸に滞在した。それは、国学研究を深めるためだけではなく、その地で国学の講義をし、人々と交わるためでもある。実際、荷田春満は、江戸で古典学者としての高い評価と人気を得たのである。中世以来の家学を墨守しようとした半面、荷田春満の学問は、近世人としての合理的精神に貫かれ、新興都市江戸の人々の熱い期待に十分に応えるものであった。荷田春満の中に悲劇性があるとすれば、近世的な合理精神と中世的な家学の墨守という、矛盾したものの共存を自身の中に赦さなければならなかったことであろう。

 
さらに、荷田春満には家名を高めなければならないという使命感があった。江戸にいた1723年(享保8年)、将軍・徳川吉宗の意を得て、幕府からの質問に国学者として回答することが度々あった。これを誇りに思ったのは、荷田春満のみではなかったようだ。弟の荷田信名は、「古今、未曾有の手柄、比類なき大慶」と日記に記して、兄が江戸幕府の下問にあずかったことを激賞している。このように、荷田春満は、一門の輝ける星であったのだ。この後、荷田春満は、養嗣子の荷田在満と荷田蒼生子を、江戸に下らせたのであった。

 
荷田春満の家集『春葉集』(上下2巻)は、1795年(寛政7年)に上田秋成、荷田信美らが編集・出版したものである。和歌647首の他に、京都伏見に国学の学校設立を願い出た建議文「創学校啓」などをも収める。上田秋成は、その序文に荷田春満の歌を評し、新しい言葉と古い言葉が混在していて、5つの色どりがあるとしている。

 
冒頭の1首は、家集の特徴の1つともなっている初句切れである。

 
――霜が下り凍てついた戸外、小さな竹藪に霰が降り、さらさら、さらさらと音をたてる。こんな夜は少しも眠りにつくことができない。

 
主観的かつ、理知的な思想歌の多いと言われる『春葉集』であるが、万葉集と古今集をミックスしたような叙景歌もあり、荷田春満の和歌の世界の奥深さを感じさせてくれる。上田秋成は、5つの色どりの詳細を述べていないが、国学者・荷田春満の代表歌を最後に掲げることにする。


ふみわけよ大和にはあらぬ唐鳥の跡をみるのみ人の道かは


 
因みに、唐鳥とは儒学のことである。

 

 


 

賀茂真淵(1697年~1769年)





夏の来て昔にかへる玉がしは取るとも尽きじ新鏡葉は


 

賀茂真淵

 

 

 





 
賀茂真淵は、1697年(元禄10年)3月4日、遠江国の浜松庄伊場村、現在の浜松市東伊場の郷士の家、岡部家に生まれた。賀茂真淵の生まれた、岡部家というのは、京都の賀茂神社の社家の流れをくむ古い家柄で、同じ伊場村にある本家の岡部家ではなく、分家筋にあたった。そうした家柄を反映して、賀茂真淵の両親や一族は、文事にたしなみが深かった。賀茂真淵も11歳頃から、両親と共に、諏訪神社の神職・杉浦国頭の月次歌会に出席し、和歌や国学を学び始めたのだった。

 
後に、賀茂真淵はその著『歌意考』の中で、ごく若いとき母に『万葉集』を読み習ったことを記している。これは、非常に珍しいことと言える。当時、『万葉集』は、現在のように一般的な歌集ではなく、どこにおいても入手できるというものでもなかったのである。つまり、和歌入門書としては、なんといっても『百人一首』が一般的だったのであり、母・竹山氏の先進的な教養が窺える。また、神職という知識階級に属していた、父の影響も読み取れるのである。

 
このように、賀茂真淵の成育環境は、知的な面に恵まれていたばかりでなく、地理的条件でも有利さがあったのである。浜松は、京都と江戸との中間に位置する。江戸中期は文化東漸期で、京都の文化が新興都市の江戸に流れていく時期でもあった。東海道を行き来する人々や物品から、聡明な賀茂真淵が時代の方向性を、敏感に感じ取らないはずはなかったであろう。実際、やがて京都に出て荷田春満に学んだ賀茂真淵は、荷田春満を亡くした翌年に、京都とは逆方向の江戸へ下る決心をしたのである。

 
賀茂真淵は、以前取り上げた契沖が創始した国学(和学)研究を大成させたのであったが、その学問の精神を一言で言えば、日本の古代精神を明らかにしようとするものであった。和歌においても、賀茂真淵は少年時代から学習していた『万葉集』を生かし、生来の創造的な情熱でもって、古代以来初めて万葉風を復興させたのである。伴蒿蹊は『近世畸人伝』に、「真淵になってはじめて、和歌に万葉集の風を詠み、文章も古語をもちいて綴り、一家をなし、世の耳目を驚かし、従い学ぶものが多い」と記している。

 
賀茂真淵は、研究と和歌の2つに優れており、その上、門人は非常に多彩であった。そのため、賀茂真淵の流派・県居派が人々を驚かしたということを、門人ではない伴蒿蹊も記しとどめたのであろう。また、賀茂真淵は、女流歌人を熱心に育成した人でもあった。賀茂真淵の門からは、数十人の女流歌人が生まれている。

 
冒頭の歌は、『賀茂翁家集』の中の1首である。

 
――夏が来て、はじめて若葉が茂り、年々の姿にたちかえり、さらに端午の節句のまるい鏡のような餅を包むことによって、上代の習慣にたちかえる柏、どれほど摘みとっても尽きない、この新しい葉は。

 
この歌は、「新樹」と題する。多くの樹木の中から、柏を選んだところに賀茂真淵の思いが込められており、それ故によく知られた1首である。柏は、古代には食物を守るために用いたが、今その風習が残っているのは、柏餅だけである。

 
「鏡葉」は古語で、鏡のように光る葉の比喩である。賀茂真淵は、この歌によっても上代精神を日常生活の中に感じ、そこに喜びを見出だしている。しかし、このような上代の語を用いて日常生活を詠む賀茂真淵の作歌の技法が生きてくるのは、200年後のアララギ派の人たちによってであった。

 

 


 

祇園梶子(生没年不明)





雪ならば梢にとめて明日や見む夜の霰の音のみにして

 

 

 

祇園梶子

 






 
東山祇園、八坂神社の南の鳥居近くに、1700年頃(元禄頃)繁盛していた茶店があった。営むのは女性、名を梶、または梶子という。洛中洛外のみならず、東国や西国までその名の聞こえた歌人であった。遠国の人々も、祇園梶子の茶店を訪れて自作の和歌を贈り、祇園梶子からの返歌を求めた。都で評判の祇園梶子の詠歌は、最もフレッシュな京土産であった。当時の京都は、庶民レベルでも、全国への知的情報の発信地であったのである。

 
1707年(宝永4年)に出版された、祇園梶子の歌集『梶の葉』は、当時の流行の最先端をいく染色家・宮崎友禅のブックデザインによる。友禅模様の挿画を配し、和歌をちらし書きにした、極めて瀟洒なイメージの3冊本で、従来の歌集の型を打ち破るものであった。この頃には、生きている個人が、和歌集を出版することはほとんどなかった。『梶の葉』は、日本で最初の生きて働く女性の個人歌集なのであった。

 
歌集は、148首の和歌を収め、その3分の1が贈答歌である。祇園梶子の茶店にやすらい、祇園梶子の言の葉を聞かまほし、と願った人々が少なくなかったことを物語っている。祇園梶子は、天性の詩人であった。詩情豊かで、語彙の続き方に個性があり、その上、心を込めて返歌を贈ったので、祇園梶子はますます有名になった。

 
しかしながら、祇園梶子は出身や生年などは語らず、今に至っても不明である。江戸の人、蛙鳴子は、この歌集の序文にいう。「梶子は心優しく上品、幼い時から父母に孝養をつくし、商売熱心な上に読書を好み、茶店の客に和歌に堪能な人がいれば教えを乞い、いつしか和歌を巧みに詠むようになった」と。

 
歌人でもあった伴蒿蹊も、その著『近世畸人伝』で祇園梶子について述べ、秀逸であったので人口に膾炙した1首として冒頭の歌を掲げる。歌題は「夜霰」である。

 
――冬の夜、女性が1人で霰打つ音を聞く。彼女は思う。この降り来るものが雪ならば木々の梢に留めて、明日見ることが出来るのに。夜の霰は、ただこうしてその音を聴くだけ。

 
この歌は、堂上歌人たちからも絶賛された。当時のトップクラスの堂上歌人・冷泉為村は、祇園梶子の歌才を愛し、自作の歌を贈っている。

 
霰を詠む古い歌には、柿本人麻呂の「我が袖に霰たばしる巻き隠し消たずてあらむ妹が見むため」が知られる。祇園梶子の歌は、音に注目したところに近世的新しさがあるだろう。このような、霰の音を強調した詠み方は、江戸時代に入る頃からのようである。

 
祇園梶子の心情に、さらに立ち入ってみれば、次のようであろうか。

 
こうして霰打つ音に聴き入っていると、今宵、私を訪う人の足音が重なって、響いてくるような気がする、と……。しかし、実際には現れてくれない。そこに寂しさが湧いてくる。冬の夜の閨の寒々としたムードと相乗されて……。

 
歌集には、次のような1首もある。

 
つらくのみすぎ来し方をしのべとや憂きひとり寝にたてる面影

 
祇園梶子は、孤閨の幽愁を詠むにも優れた人であった。

 

 


 

祇園百合子(生年不明~1757年)





問ふ人もなき奥山のさびしさは心にかなふすみかなりけり


 

祇園百合子

 






 
祇園百合子は、前回取り上げた祇園梶子の養女である。祇園梶子の茶店を受け継ぎ、営む傍ら和歌を詠んだ。生年は不明だが、「花顔嬋研にしてかつ気概あり」と評されるなど、艶やかで上品な美人であるばかりでなく、気丈でもあった。だからこそ、祇園梶子に見込まれ、養女となったのであろう。

 
1727年(享保12年)、祇園百合子の歌集『佐遊李葉』(3冊)が出版される。表紙の趣こそ、紺地に金泥、草花模様の『梶の葉』に対して、白地、唐花模様きらら刷りの『佐遊李葉』と異なっているが、『佐遊李葉』の体裁の趣向は、祇園梶子の歌集『梶の葉』のそれを倣う。川島叙清の挿画を配し、散らし書きにした和歌、その洗練されたデザインは、『梶の葉』の21年目の再現に他ならなかった。

 
収める歌は159首である。『梶の葉』に比べて、贈答歌が極端に少なく、2首しかないことも『佐遊李葉』の特徴である。祇園百合子は、養母・祇園梶子のように、茶店に訪れる人たちと歌を詠み交わさなかったのであろうか。歌集からは、憂き世を離れ、静かな生活をひたすら求める祇園百合子の心が窺え、祇園梶子とは全く違う歌人像がイメージされる。

 
冒頭の歌は、「山家」と題する一首である。

 
――誰1人、私を訪ねてくれる人もない、深い山奥のすまい。何という言いようのない寂しさか……。しかし、この寂静こそが私の求めていたものではないか。今の私の心にふさわしい住居、それがここなのだよ。

 
人が文学の中で求めた世界に、現実に身を置くことは、むしろ稀ではないだろうか。祇園百合子の現実生活には、この歌のような隠逸者的なものではないドラマがあったのである。

 
それは、『佐遊李葉』出版の翌年のことであった。江戸幕府の旗本の子息・徳山某との間に、祇園百合子は1女を出産し、町子と名付ける。徳山某は、わけがあって京都に滞在していた。2人は、祇園百合子の家で共に暮らし、10年の歳月が流れた。

 
突如として、江戸から徳山家の後嗣として徳山某を迎えるための使者がやって来る。それは、江戸へ帰り、将軍に出仕しなければならないということである。同道を求める徳山某だが、祇園百合子は固く辞した。茶店の女主人と旗本の妻と、身分の上の隔たりは大きい。祇園百合子は、封建社会の身分倫理から江戸へ下るのを拒んだのであろうか。

 
しかし、そうではないのではなかろうか。祇園百合子にとって、新興の武家の都市・江戸で、武士の妻として暮らすことは、さほど魅力のある生き方ではなかったのではないだろうか。京都は当時、多くの点で他を圧する文化都市であった。歌人として、宮中にも知られていた祇園百合子が、京都を愛し、その環境を捨て難かったことは、十分に考えられることである。

 
徳山某と別れて20年程を生きた祇園百合子は、1757年(宝暦7年)に没する。『佐遊李葉』は、町子を出産する前年の刊行であるから、旗本との恋をその中に見るのは難しい。祇園百合子が、第2の歌集を編んでいれば、この恋愛における心情を、集の中に読みとることができたかもしれない。『佐遊李葉』とは違った歌の世界として……。

 

 


 

澄月(1714年~1798年)





大原やむかしの夢のあととへば結びしままの庵もありけり


 

澄月

 






 
京都に、平安地下和歌の四天王と呼ばれる、卓越した4人の歌人が現れたのは、江戸で賀茂真淵が没して間もなくの頃である。江戸では、賀茂真淵が大成させた古学研究と、提唱した万葉復古の和歌が爆発的に広まろうとしていた時期であり、一方の京都では、和学の素養を持った4人の歌人が、世間の注目を集めていたのである。

 
4人は、革新派と保守派の2派に分かれる。伝統から離脱し新しい歌を詠もうとする小沢蘆庵・伴蒿蹊と、伝統の上に立ち堂上派の流れを汲む澄月・慈延とである。

 
著名な4人の歌人が、ほぼ同時期に京都に出現したことは、文学史上の必然であった。それについては、後に触れていくことにする。今回は、この4人の中の1人、保守派の澄月を取り上げたい。

 
澄月は、備中国(岡山県)玉島に生まれたが、京都で武者小路実岳の門人となって和歌を学んだ。澄月が和歌の道に入ることになった理由を物語るエピソードは、とても興味深い。著者は、橘南谿。澄月と同時代を生きた、旅行家としても名高い医者である。その随筆『北窓瑣談』に載る話である。

 
澄月は幼い時から出家して、玉島の天台宗の寺院で修行していた。ある時、住職が、澄月より年上の修行僧が怠けているのを見つけて大変怒り「お前は年も上なのに法行を怠けては何の役にも立たないではないか。あの澄月を見よ、早朝から遅くまで、誦経、学問、手習いまで精をだし、掃除などもまめやかにやる、澄月こそ後々のこの寺の住職になる器だ」と言った。

 
そばで聞いていた澄月は、住職に向かって「ただいまのご意見は誠に承知致しかねます。私が学問に励みますのは、天下の高徳として衆生を済度したいがためであり、この寺ごときの住職になるためではありません」と言った。その俗っぽい住職は驚いて、お前はばかだなあと笑ったきりであった。この住職が自身の師たる人ではないことを、速やかに見抜いた澄月は、京都に上り、比叡山に高徳碩学の僧を求めた。しかし、期待に添う師に巡り会うことができず、宗門の衰えていることを嘆息し、ついに風流の道に入って、歌人となったのである。

 
澄月は、今後取り上げる予定の木下幸文の師でもある。木下幸文は、澄月の最晩年の弟子として、1794年(寛政6年)に入門した。当時、木下幸文は16歳、澄月は81歳、その年齢差は65歳であった。木下幸文は年若かったが、後に澄月の第1の弟子となり、その家集『亮々遺稿』に、師・澄月のことを次のように記している。小沢蘆庵や伴蒿蹊とは立場を相違した保守派の和歌が、時代の波に飲み込まれていくのが知られるのである。

 
「かつて、世の中に歌よみといえば、澄月、蘆庵といわれたものだ。京大坂で歌人として名のある人はほとんどこの2人の門人でない人はないほどである。ところが、この20年ほどの間に、古学が盛んになって、歌も後世ぶり(伝統的歌風のこと)をよむ人は数えるばかりになり、昨日まで世に轟いていた師の名を今は知らない人が多い。こんな世相は哀れなことである。」

 
さらに賀茂真淵の門流が世にはやっていることを嘆くのであった。

 
冒頭の歌は、比叡山を去って後に住んだ、大原の里を再び訪れて詠んだ1首である。

 
――大原を訪れると、昔住んでいたままの庵もあり、自然もそのままだなぁ。

 
『平家物語』の大原御幸のイメージが重なっていて、伝統的な古典を踏まえた、このような詠み方が保守派の句作りなのである。

 
澄月の夢とは、高徳の僧になることだったのか、それとも歌人として自身の和歌の世界を人々の前に示すことだったのであろうか。

 

 


 

田安宗武(1715年~1771年)





真帆ひきてよせ来る舟に月照れり楽しくぞあらむその舟人は


 

田安宗武

 






 
――帆をいっぱいに広げてこちらに近づいてくる舟に、月が美しく照っている。楽しいことであろう、その舟に乗る人らは。

 
旧暦7月、江戸の佃島で詠んだ歌で、家集『天降言』に収められている。7月の月は、曇りの少ない清明月で知られる。今の暦では、8月から9月頃で、残暑まだ厳しい中を、舟遊びで海浜に赴いた宗武が庶民の姿を詠んだ。白帆を張った舟を月が照らしているという、爽快な明るい景である。のびのびとして柄も大きく、調べもさわやかで、清明な感が溢れる。

 
佃島は、隅田川の中洲、方百間(約180メートル四方)の小さな島である。1644年(正保元年)、摂津国佃島の漁師たちが江戸に下り、幕府の許しを得て築いた漁師の島で、そこで白魚を獲り、幕府の御膳白魚献上の御用を務めていた。田安宗武の食膳にも、しばしば供されたはずである。

 
田安宗武は、1715年(正徳5年)、8代将軍・徳川吉宗の二男として出生した。幼少から父に文武の両才を認められ、16歳の時、江戸城田安門内に邸を設け、田安家創始を許される。所領10万石。清水家、一橋家と共に御三卿と称される。

 
御三卿といっても、特に定められた重い役職もなく、恵まれた境遇にあった田安宗武は、天賦の才を国学や服飾、音曲、有識故実などの研究に傾けて、かなりの質と量の研究成果を残した。

 
田安宗武は、賀茂真淵門にあって純万葉風の歌人として知られる。純万葉風の歌人とはいえ、歌風には変遷がある。1734年(享保19年)、20歳の時、関白・近衛家久の女・森姫を娶った頃は、近衛家久に和歌の添削を受けている。当然この頃は、堂上風の和歌を詠んでいる。後に、荷田在満に和歌・歌学を聴く。この頃は、新古今風であった。

 
ところが、近世和歌史上、空前の大論争が起こるのである。荷田在満の『国歌八論』を巡って、師弟の論争であった。つまり、田安宗武から和歌観について考えを求められた荷田在満は、『国歌八論』を著して、純芸術的な立場から歌は尊ぶべきものではなく、楽しむべきものであることを説き、文学を文学として味わうべきであるとする文学観を主張した。これに対して、田安宗武は『国歌八論余言』を著し、歌にも勧善懲悪の功のあるべきことを説き、儒教的・道徳的立場から反論したのであった。さらに荷田在満は『国歌八論再論』を、田安宗武は『歌論』を書き、激しく論難した。

 
論争はなおも続いた。荷田在満の推薦で、後任として田安家に仕えた賀茂真淵も、この論争に加わるのである。賀茂真淵は、『国歌八論余言拾遺』『国歌論臆説』を著す。ただ賀茂真淵は、田安宗武の功利論を否定しない立場をとった。

 
論争は、後に20年を経て大菅公圭、本居宣長、伴蒿蹊らの間で、第2次の『国歌八論』論争が再燃するという風に、近世和歌史上に投げかけた波紋もまた大きかったのである。

 
田安宗武は、文弱を戒め、武道を奨励する父・徳川吉宗の精神を受け継ぎ、武道にも熱心であった。最後に、よく知られた鷹狩りの1首を掲げる。

降る雪にきそひ狩する狩人の熊のむかばき真白になりぬ

 
――降っている雪の中で、鷹狩りをしている人たちの身に付けている熊のむかばき(馬に乗るとき、腰につけ股から下を覆う熊の毛皮)は、雪のために真っ白になってしまった。

 
「きそひ狩」は、万葉集巻17などに見られる語で、狩猟のこと。雪中の鷹狩りという男性的な景の中に、熊のむかばきと雪……。つまり、黒と白のシンプルなコントラストの美が、巧みに詠まれている。武人の雄々しさと雪の柔らかさが、1首の中に拮抗して巧みであろう。

 

 


 

涌蓮(1719年~1774年)





むかひみる影身にしみて氷る夜に光を磨く月の寒けさ


 

涌蓮

 






 
――冬の月に向かっていると、その光が身にしみてくるようだ。すべてが凍るような寒い夜、寒気が月光の輝きをひときわ磨きあげることよ。

 
取り上げた歌の題は「冬月」である。寒気が月光の輝きをより澄明なものにしているという着想を、「光を磨く月の寒けさ」と表現したところに、この歌の巧みさが窺えるだろう。さらに、月光をそれだけで詠まずに、作者自身との関係において詠むところに、涌蓮の個性があるのではなかろうか。

 
涌蓮は、和歌を公家歌人の冷泉為村に学んだが、一方で地下歌人の小沢蘆庵とも親交があった。ここで、小沢蘆庵の月の歌を1首取り上げてみたい。

月ひとり天にかかりてあらがねの土もとほれと照る光かな

――月がたった1つ大空にかかっているよ。土も透れとばかりに明るく照るその光よ。

 
この歌は、澄んだ空にかかる粉飾を許さないような月光の美を擬人的に詠んでいる。しかし、武士の出身である小沢蘆庵の気骨のあるイメージで貫かれていて、涌蓮の微妙な情趣美とは世界が少し異なる。ただ、小沢蘆庵の提唱した「ただことうた」、自然の心情を自然の詞で詠む、という主張の影響を涌蓮も受けてはいる。その一方で、涌蓮には冒頭の歌のような、新古今的な一種絢爛たるイメージの作も多いのである。

 
ある時、涌蓮と小沢蘆庵は、山桜を詠む歌を贈答し合った。その時の涌蓮の歌が、次の1首である。

さくら狩雨に一夜のやどりして我が心さへ花になりぬる

 
花を客体として見るにとどまらず、花の生命と合体し、花と1つになろうとする。言わば、花に変成したいと願う心が1首の中に詠み込まれている。桜花を愛した新古今集の代表的な歌人・西行の世界を彷彿とさせる面があるだろう。因みに、没後に編まれた涌蓮の家集『獅子巌和歌集』(1808年・文化5年刊、1600首収載)の春部は、その4割が桜を詠んだ歌で占められている。

 
涌蓮は、伊勢の出身で、1719年(享保4年)に生まれる。浄土真宗高田派の末寺である浄光寺にいたが、江戸に出て住職となった。高僧伝を読んで、深く感じるところがあり、決心して京都に移り住み、嵯峨の地に居を転々と移して暮らした。無欲恬淡として、生涯を通して物を蓄えるということをしなかった人であった。念仏を唱え、また和歌を多く詠んだが、自身では1首も記しとどめることがなかったという。

 
伴蒿蹊は『近世畸人伝』の中で、涌蓮の歌風を「詞を飾る事もなく、思ひにまかせたるが、かへりて真率、人の及ばぬ所ありき」と記している。たしかに家集には、伴蒿蹊の言う、ありのままで飾り気のない、ひたむきな詠み方の歌が収められている。一方で、対照的な新古今風の歌も収められているのである。異なる歌風の共存、それが涌蓮の家集の特色でもあり、魅力ともなっているのではなかろうか。

 
伴蒿蹊の言うような真率の1首を取り上げてみる。

窓のうちに聞くも寒けし冬のきて今朝吹き変る木枯の音          (初冬)

 
室内で聞いても、今朝の風の音は、はっきりと昨日までとは違う。いよいよ本格的な冬の季節となるのだなぁ、と作者は思う。心のままに詠んだ1首であるとともに、「今朝吹き変る」に、堂上和歌を学んだ世捨ての歌人の歌としての、個性が窺えるのである。

 

 


 

加藤美樹(1721年~1777年)





夕あらしふかぬ都もさゆるかな比良の高嶺にみ雪ふるらし


 

加藤美樹

 






 
加藤美樹(宇万伎ともいう)は、『雨月物語』の作者・上田秋成の師としても知られる。加藤美樹は1777年(安永6年)、夏真っ盛りの6月10日、京都三条の仮寓で急逝した。大番組与力として、二条城の城番屋敷に勤務中であった。57歳のことである。加藤美樹は江戸の人であったので、その葬儀を行ったのは弟子の上田秋成らであった。

 
加藤美樹と上田秋成の出会いは、約10年を遡ることとなる1767年(明和4年)のことである(あるいは、明和3年ともいう)。

 
当時、上田秋成は34歳、『諸道聴耳世間猿』や『世間妾形気』の浮世草子を出版し、和漢の書物を広く繙読する筆力ある作家として、世間の評判を得ていた。一方、加藤美樹は47歳であった。すでに20有余年を賀茂真淵の門にあって国学を修め、県門(賀茂真淵の門)の四天王の1人に数えられる俊秀であった。賀茂真淵から『古事記』の研究を大成させることを期待されてもいた。

 
この出会いは、上田秋成の学問および、思想に多大な影響を与えることになるのであった。以後、加藤美樹は、その篤実な性格をもって、上田秋成を10年間にわたり、多くは文通によって個人的に指導した。

 
上田秋成と出会った時、加藤美樹は大番組与力として大坂城に勤番中であった。大番組は、江戸城や江戸市中の警備にあたる他、二条城、大坂城へ1年交代で勤務する。将軍直属の軍団として最大、かつ由緒正しき家柄であった。加藤美樹は、武人であり、学問にも秀でていた。それは、時の将軍・徳川家治の叔父であって、歌人としても知られる田安宗武の奨励した、理想的な侍の姿でもあったはずである。

 
加藤美樹は、本姓・藤原氏、通称は大助である。はじめ河津家に養子に入り、河津美樹とも称したが、のち大番組与力の加藤氏の養子となった。

 
上田秋成は、加藤美樹の13回忌、1789年(寛政元年)に加藤美樹の歌集『静屋歌集』を編んだ。長歌を含む82首には、江戸と上方の往来の途次に詠んだ歌が多い。京を詠む歌は、そんなに多くはないが、掲出したのは、厳冬の都を詠んだ集中のただ1首。

 
――夕方の山風も吹かないのに、都はしんしんと冷えわたってきたことだなあ。都がこんなにも冷えるのだから、比良山の嶺の高いところにはきっと雪が降っているに違いない。

 
題は「冬遠情」とあって、遠くの冬景色を詠んだ歌。江戸育ちの加藤美樹にとって、都の冬の寒さは厳しいものであったに違いない。風もないのに凍てつく夜、ここから望むことは出来ないが、比良の頂には降り積もる清らかな雪が見えるはずだ。加藤美樹は、その気高い白さを思う。剛猛な武人、加藤美樹の心に舞う柔脆な純白の雪。その時、加藤美樹の心に去来するものは何であったのだろう。

 
加藤美樹は、イメージの把握に個性があり、それが独自の美的世界を構築している。


いぶき山いぶく朝風吹きたえてあふみは霧の海となりぬる

――伊吹山から吹きおろしていた朝風が途絶えたとき、琵琶湖を抱いた近江国は果てしもない霧の海となった。


 
江戸から上洛の途中、夜の明けきらないうちに宿を出て、「すり針峠」についた時、夜がすっかり明けた。視界が一気に開けた時に詠んだ1首である。

 
万葉風の視界の壮大さに、古今風の耽美性と着想の巧妙さを兼ね備えた優美な歌風、これが加藤美樹の歌の魅力なのではないだろうか。

 


 

荷田蒼生子(1722年~1786年)





わけていはむ言の葉もなし稲荷山やまず恋ふると人に告げてよ


 

荷田蒼生子

 

 

 





 
江戸時代の中頃(1700年代)になると、それまで圧倒的に上方のものであった文化の中心が、少しずつ江戸に移り始める。いわゆる、文化の東漸期である。幕府の政治と現実に関わりをもつ新興の学問にとっては、なおさら江戸の地が魅力的であった。別の言い方をすると、新興の都市である江戸が、この頃になってようやく、蓄積のある京都の学問を、少なからず必要としたのでもあった。

 
この時期の江戸に、「女先生」(おそらくこの呼称の最も古い用例だと思われるが…)と呼ばれた、大変著名な女性、荷田蒼生子が現れている。荷田蒼生子は、土佐候、姫路候、岡候、山内候、堀田候ら諸大名の間で名高い女和学者であった。そればかりか、その夫人や娘、奥に仕える女性たちも礼を尽くして荷田蒼生子の教えを受けた。

 
荷田蒼生子は、伏見稲荷大社の祠官家に生まれる。時に1722年(享保7年)、紀州候の4男に生まれ、異例の出世を遂げた8代将軍・徳川吉宗の7年目の治世であった。

 
荷田蒼生子が生まれ故郷の伏見から江戸に出たのは10歳の年、兄・荷田在満(23歳)に伴われてのことである。この時すでに兄妹は、跡継ぎのいなかった叔父で、同じく伏見稲荷大社の神官であった荷田春満の養子となっていた。義父・荷田春満は、この東下を勧めてやまなかった。和学者として、荷田在満が幕府に登用されることを強く願っていたからである。義父・荷田春満の期待に応えて、荷田在満は将軍・徳川吉宗の2男・田安宗武に和学もって仕えた。兄とともに荷田蒼生子も、すでに江戸で活動していた荷田春満の末弟・荷田信名らの荷田一門の人々と交わって、古典の研究を重ねたのである。

 
やがて荷田蒼生子は江戸で嫁したが、夫とは早くに死に別れるという不運に見舞われ、そのうち紀州候の江戸藩邸に仕え、歌文を教えた。これは、兄・荷田在満が田安宗武に仕えたことに因む。しかし、後に荷田在満は田安宗武の和歌の師の立場を、遅れて江戸に出てきた義父の門人・賀茂真淵に譲ることになるが、これは荷田在満と田安宗武の文学上の立場の相違によるもので、以前記した通りである。

 
荷田蒼生子の家集『杉のしづ枝』は、没後に荷田蒼生子の最愛の弟子・菱田縫子が編集したものである。646首の和歌を収め、江戸における荷田蒼生子の華やかな交流のありさまが窺える。諸侯やその夫人たちのみならず、県門(賀茂真淵門人)の人たちとも親しく交わった。

 
荷田蒼生子の歌は、当時の県門の女流歌人たちに比べると、新古今風ながら万葉風に近いリズムがあって、魂の力強さとでもいうべきものが感じられる。家集に序文を執筆した加藤千蔭は、荷田蒼生子の歌を「かりそめにも女性のくねくねしたところがなく、清らかさがある」と評する。義父・荷田春満は、気迫のある人で聞こえたが、荷田蒼生子も、当時としては抜きん出た気丈な女性であったのだろう。

 
晩年、病がちであった荷田蒼生子は、1786年(天明6年)2月2日、稲荷大社の初午祭の頃、江戸の養子・藤江尚江の家で没した。享年65歳、江戸に出て55年の歳月が流れていた。

 
冒頭の歌は、ある時、京に帰るという人に託したという1首である。「特別に言うべき言葉もないが、幼い日に兄とともに後にした故郷を一時も忘れずに恋い続けたのです」と、荷田蒼生子は言っている。藤江尚江がその碑文を記した、荷田蒼生子の墓碑「女先生蚊田氏之墓碑」は、浅草寿町金竜寺に建てられた。再び故郷に帰ることもなく、兄・荷田在満とともにこの地で永遠の眠りについたのであった。

 

 


 

池大雅(1723年~1776年)





結びおく草のいほりに幾世々の春も絶えせぬ花にほふらん


 

池大雅

 

 

 





 
普通の人とはどこか異なっているが、人間として、天(自然)にかなった在り方の人を、近世の人は「畸人」と呼んだ。「畸」は「奇」に通じ、意味は「異」に同じである。『荘子』は畸人を、「畸人トハ、人ニ畸ニシテ、而シテ天ニ侔フ、故ニ日ク、天ノ小人ハ人ノ君子、人ノ君子ハ天ノ小人ナリ」と記している。

 
池大雅は、典型的な「畸人」の1人であった。今回取り上げる池大雅と、今後取り上げる予定の池玉瀾は夫婦である。2人は琴瑟相和す理想的な夫婦であった。伴蒿蹊は『近世畸人伝』に以下のような逸話を記している。

 
2人は、中国から輸入された石刻(石摺り)の十三経を手に入れたいと思って、数年来お金を蓄えていた。やっと銭百貫文(現在の貨幣に換算すると、およそ250万円)を貯めることが出来た。

 
ところが、店は石刻の十三経を売ろうとしない。がっかりした2人は、折から祇園社が社殿の修造のための寄付を求めていたので、そのお金を全部奉納することにしたのであった。

 
大きなわらむしろの袋に巴の紋(祇園社のみこしの紋)を書きつけ、10袋に分けて、門人とともに礼服に威儀を正し、青竹の棒で担っていった。神社は喜び、奉納者の姓名を掲げたいと言ったが、これを断った。けれども、ついに断り切れずに池玉瀾の名のみを記したのであった。

 
池大雅は、奇行百出をもって人を驚かせたが、それは池大雅の天真爛漫さ故なのであった。

 
伴蒿蹊が、『近世畸人伝』にいう池大雅の人となり、外見は気儘ながら、内面は修実、形式を重んずる人ではなかったが、人に誠意を尽くし、礼儀を失することはなかった。その特質は、飄逸怪奇、変幻出没、それでいて品性の高さを備えると評される画風と、表裏一体を成すものであった。池大雅は、日本の文人画の創始者として名高いのみならず、書にも秀で、詩文を撰し、和歌を詠んだ。

 
1723年(享保8年)、京都に出生した。幼い頃から神童の誉れ高く、3歳で文字を知り、5歳の時に黄へき山万福寺で大字の楷書をしたため、その天才ぶりを発揮して人々を瞠目させたという。

 
長じて後、南宗画の第一人者として名声を欲しいままにした。洛東、真葛原の草堂は、絵の依頼人で門前市をなす程であったという。

 
冒頭の和歌は、真葛原の草堂の桜を詠んだ1首である。題は「草庵ノ桜」。

 
――ここに草庵を結んだ。この庵は、はかなく粗末なものだ。しかし、ここに美しく咲き匂う桜樹は、どれほど多くの春を咲きついできたことか。そして、この先も幾ばくの年月を経るのであろうか。

 
年年歳歳花相似タリ歳歳年年人同ジカラズ

 
池大雅は、桜の木の下に結ばれた庵で、庵の非永久性に対する桜花の美の永久性を思う。この真葛原の大雅堂に市をなして自分の絵を求める人々も自身も、いずれこの世のものではなくなる。けれども、池大雅の南宗画の数々は、桜花のごとく永久に残り、人々に称賛されるのである。

 
1776年(安永5年)、池大雅は没した。享年54歳。

 
大雅堂の跡には、その面影を偲ぶように石碑が立てられている。池大雅の生きた時代にも、一帯は洛東の花見の名所として有名であった。

 
池大雅には、刊行された歌集はない。しかし、没後およそ50年の1827年(文政10年)、京都で刊行された『類題若菜集』に、池大雅の歌が16首収められている。小沢蘆庵、澄月、上田秋成らの地下の一流歌人に先んじて、池大雅の名が巻末の名寄せの冒頭に記されていることが注目されるのである。この頃には、池大雅の絵の贋作が街に横行していた。池大雅の絵の偽物を作った人たち、専門的な歌人ではない池大雅の名を冒頭に掲げる編集者、あまたのエピソード……。池大雅は、その個性を人から愛され、尊重された畸人であったのだろう。

 

 

 


 

楫取魚彦(1723年~1782年)





丈夫やしたには人を恋ふれどもますらをさびてあらはさずけり


 

楫取魚彦

 

 

 





 
加藤美樹、橘(加藤)千蔭、村田春海とともに楫取魚彦は、賀茂真淵の門流を代表する歌人、県門の四天王と称される。

 
しかし、県門の四天王と並べられる4人のなかで、最もよく師・賀茂真淵の万葉風を継承したのが、この楫取魚彦であっただろう。賀茂真淵亡き後、門流の歌風は、おおよそ3つの流れに分かれる。橘千蔭・村田春海の江戸派、本居宣長などの新古今派、そして、楫取魚彦に代表される万葉派である。

 
とは言えども、楫取魚彦の歌風は、賀茂真淵のスタイルをそのまま継承するのではなく、万葉集を背景にした、個性的で豊かなリリシズムが認められる。それが、楫取魚彦の和歌が、師以上に万葉風であると評価される所以でもある。それゆえ、賀茂真淵亡き後、200人ともいう門人が、楫取魚彦のもとに集まったのであった。

 
冒頭の和歌は、県門の後輩である清水浜臣が編んだ『楫取魚彦集』からである。題は「いはで思ふ」。

 
――私は丈夫であるから、その人のことを心の中では恋い慕っているけれども、男らしく表には出さないことである。

 
第4句「ますらをさびて」が、この歌のいわば詩眼、1首の眼目である。万葉集巻5の山上憶良の長歌に「男子さびすと……」(男らしく行動するとして……)などと用いられる語で、「さび」(終止形さぶ)は、他の語について、それにふさわしい態度を言い表すのに用いる接尾語である。

 
賀茂真淵が、『新学』の中で提唱した「ますらをぶり」は、万葉風を理想とする楫取魚彦らにとって、生活上の理想でもあったのだろう。この歌は、その理想の上に立った「ますらをぶり」の恋歌の絶唱といって良い。楫取魚彦がこの歌を詠んだのは、54歳か56歳の頃である。はるかに知名の年齢を越えていたが、このような清婉な歌を詠む瑞々しさを備えていた。それが楫取魚彦の魅力の1つでもあるだろう。

 
次に取り上げるのは、同じ頃に詠んだ、楫取魚彦の代表歌である。題は「雲を」

天の原吹きすさみける秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり

 
――大空に吹き荒れている秋風に乗って、走るように流れていく雲もあれば、ゆらゆらと漂う雲もある。

 
立体的で奥行きのある空を、写実的に詠んでいる。万葉風のスケールの大きさの中に、非常に繊細な感覚が感じられ、そこに単なる写生歌にはない詩的叙情性があるのである。

 
もう1首、父を詠んだ歌を挙げる。

父のみの父いまさずて五十年に妻あり子ありその妻子あり

 
――父君がお亡くなりになられてから50年になりました。今私には、父君の御在世中にはいなかった妻がおり、子があり、その子にも妻子ができました。

 
楫取魚彦は、父・景栄を6歳の時に亡くした。のち母に養育された楫取魚彦は、13歳にして父の跡を継いで、下総国香取郡佐原村の村名主を務めた。この頃は、俳諧をたしなみ、建部綾足と交わっており、橘千蔭とともに建部綾足から絵画を学ぶなどしていた。正式に賀茂真淵に入門したのは、1759年(宝暦9年)、37歳の時であった。

 
父の歌は、楫取魚彦が幼い時に別れた、父の墓前に捧げた歌であった。「御在世中は孝養をつくせなかった私ですが、このように子孫をなし、家を後代に残せました。これが孝の道ではないでしょうか」と楫取魚彦が切々と語りかけているようである。

 
父を詠んだ日本の名歌の1首と言って良いだろう。詠んだのは、1778年(安永7年)4月23日。もちろん「父の日」ではないのだが……。

 

 


 

小沢蘆庵(1723年~1801年)





太秦の深き林を響きくる風の音すごき秋の夕暮


 

小沢蘆庵

 

 

 





 
今回取り上げた歌は、非常に思い入れのある歌である。私が赤穂市美術展(書の部)において、無監査として初めて出品した作品の題材としたものである。

 
1770年前後(明和・安永の頃)、すでに50歳に近い年齢に達していた小沢蘆庵は、和歌に独自の主張を強く打ち出し、当時勢いをもって流行しつつあった賀茂真淵の擬古派に厳しい批判の矢を放った。これは、和歌史において特筆すべき出来事であった。

 
小沢蘆庵は、武士の出身であったが、尾張竹腰家の京都留守居役として、早くから京都に住んでいた。和歌は、和歌における権威の象徴というべき冷泉為村の門に入って、堂上和歌の伝統を継承した人であった。しかるに小沢蘆庵は、保守的な伝統和歌の世界に安住しなかった。逆に、伝統和歌の王城の地であった京都においてこれを打破し、かといって当時和歌界を席捲していた擬古派にくみすることもなく、自由な主張を展開したのである。

 
小沢蘆庵の主張というのは、小沢蘆庵が理想として熟読した古今集の「仮名序」にいう、「ただ事歌」を典拠とするものであった。和歌とは、すなわち誰にでもある純粋な人間の感情を、自然のままに、技巧を用いずに表すことというのである。小沢蘆庵は、晩年この説を意識的に平明な言葉を用いて説き、当代の人たちに小沢蘆庵のイメージした新しい和歌の世界を強くアピールした。その結果、小沢蘆庵の「ただ事歌」の主張は、多くの人々の支持を得ずにはおかなかった。

 
冒頭の1首は、その代表作である。

 
――太秦の深い林を響かせながら吹いてくる風の音がすさまじい秋の夕暮れよ。

 
木立深く茂る林を響かせながら、凄まじく秋風が吹いてくるという、ダイナミックな秋を詠んでいる。太秦は古くから開けた歴史的な土地であり、その奥深いイメージと、小沢蘆庵の孤独な心が一体となって、いよいよ凄さを感じさせるのであった。

 
小沢蘆庵が66歳から70歳まで、太秦に仮寓したことはよく知られている。頼山陽は、小沢蘆庵の歌才が太秦で磨かれたことを、中国・唐の詩人である杜甫における夔州のごときものと、その流浪地で悲壮を極めた進境著しい詩を詠んだのに比して、絶賛したのであった。

 
小沢蘆庵の歌の新しさは、「秋の夕暮」で終わる古典和歌(三夕の歌など)の、ある種スタテイックな情調から離れた、動的な力のある秋を詠んだところにあるといえる。

 
さらにいうと、近世和歌にみられる新しい文学観を、「人情を述べること」、「表現を平明にすること」、および「古典の新たなる尊重」の3点に集約するとすれば、これらを全て満たした初めての人は、小沢蘆庵であると言っても良いのではないだろうか。小沢蘆庵は、「人情」を和歌の根本においた。ただ、人情を自然のままに表出するというだけなら、すでに賀茂真淵の真情自然説があったのである。しかし、小沢蘆庵は、古語尊重の賀茂真淵説を否定して、自然に溢れる精神の感動といったものを表現するためには、難解な古代の言葉ではなく、現代の平明な言葉、すなわち清新な言でなくてはならないとしたのであった。

 
このような革新的な歌論をもって、伝統和歌の世界に切り込んだ小沢蘆庵の出現は、ひとり和歌界のみの現象ではなかった。当時、日本の漢詩文の世界でも、同時期にそうしたことが問題となっていた。全国を風靡していた蘐園派から、擬古主義を排斥し、詩的精神すなわち「清新」さを生命とする性霊派へと、漢詩文の主流は、大きく転換しようとしていたのである。

 
小沢蘆庵は、そういった新しい詩人とも親しく交わり、詩論を学んだ。近世の文運興隆の大きなうねりの中で、それらは交流し合い、影響し合って、新しい文学的生命となり、近代へと連続していったのである。

 

 


 

池玉瀾(1728年~1784年)





いつのまに誰がぬぎすてし藤ばかますそ野のはらに匂ふあきかぜ


 

池玉瀾

 






 
今回取り上げる池玉瀾(町子)の夫は、以前取り上げた池大雅である。ある時、夫の池大雅は、大坂の人から招かれて、絵を描きに行くことになった。夫が出かけた後、愛用の筆を巻いた簾がひと巻忘れられていた。然程遠くは行くまいと、池玉瀾は急いで駆け出したのである。建仁寺の前でようやく夫に追い付き、
 
「あなた、筆をお忘れでございますよ。」
と、手渡した。すると、夫は少しも気付かず、
 
「いずこのお人か存じませんが、よく拾って下さいました。ありがとうございます。」
と、おしいただくと、顔も見ずに再び歩き始めた。池玉瀾は、そのまま何も言わずに家に帰ってきたのであった。

 
池玉瀾と池大雅は、仲睦まじい夫婦であった。しかし、このエピソードの示すように、どこか超俗的なところが往々にしてあった。

 
またある時、池玉瀾は池大雅とともに、和歌を学ぶために冷泉為村の屋敷に招かれた。
 
「あの有名な玉瀾さんがお見えになる」
と、すでに池大雅とともに画家として名高かった池玉瀾を、冷泉家の女房たちは心待ちにしていた。ところが、現れたのは、糊のゴワゴワした木綿の着物を纏い、お土産の魚籠を提げた、まるで草鞋を履かない大原女のような池玉瀾であった。そのため、皆はとても驚かされたのであった。

 
池玉瀾も池大雅と同じく、名誉や恥辱といった俗世間のことを意に介することなく、終日、紙を伸べて仲よく絵を描いた。三味線の好きな池大雅が、さびた声で弾き歌うと、池玉瀾も箏を弾じてそれに合わせた。また、池大雅に画を学んで四君子や山水を巧みに描き、風流の人として知られる柳沢淇園から1字を与えられて「玉瀾」と号した。

 
ちなみに、池玉瀾の母も以前この欄で取り上げた、祇園百合子である。祇園百合子は、徳山某と別離の後、祇園の茶店を営み、そのかたわら池玉瀾を愛しんで育てた。
 
「あなたのお父上は、お侍である。決して自分を軽んじてはなりません。」
と、祇園百合子は、娘に相応しい夫を求めていたが、祇園境内で熱心に絵を描いていた青年画家・池大雅(当時、池野秋平)に白羽の矢を立てたのであった。

 
前述のように、池玉瀾は、和歌を冷泉為村に学んだ。母と祖母の果たせなかった堂上歌人への入門を許され、歌集『白芙蓉』を残した。『白芙蓉』は、歌数19首と少ないが、1910年(明治43年)、祖母、母の歌集と合わせて『祇園三女歌集』として、祇園で刊行された。

 
冒頭の歌は、歌集の掉尾を飾る歌で、題は「蘭の絵に」である。

 
――知らない間に一体どなたが野に脱ぎ捨てておいたのかしら、この藤袴は。芳しいその香りが、秋風に運ばれて裾野一面に匂ってくるよ。

 
この歌は、「藤ばかま」に着物の「袴」と、秋の七草の1つの「蘭」の2つの意味を掛けて読むところに趣向がある。また、「袴」と「裾」は縁語である。平安時代、藤原敏行の歌に、次の1首がある。

何人か来てぬぎかけし藤袴来る秋ごとに野べをにほはす

 
池玉瀾の歌は、風になびく藤ばかまの薄紫の花が、微妙な色彩の変化を見せる一瞬を、画家の美的感覚で捉える。古典的世界に視点の新しさを加える、それが堂上和歌を学んだ、江戸時代の地下歌人の歌なのではないだろうか。

 

 


 

鵜殿余野子(1729年~1788年)





相思はでうつろふ花をはかなくも身にかふばかりなど惜しむらむ


 

鵜殿余野子

 






 
県門三才女の1人に数えられる鵜殿余野子は、同じ三才女の油谷倭文子とは対照的である。油谷倭文子が20歳で夭折したのに比べて、鵜殿余野子は60歳の長命を生きて、1788年(天明8年)に亡くなった。また出自も、油谷倭文子が富裕町人層出身であったのに対して、鵜殿余野子は両御番御小姓組、家禄千石の旗本の娘というように。しかし、2人は鵜殿余野子が4歳年長で、姉妹のような親しい交わりを結んでいたのであった。

 
そればかりではない。鵜殿余野子の兄・鵜殿士寧(孟一)は、服部南郭の門人で、古文辞の大家として知られた人であった。そのため、鵜殿余野子もその影響を受けて、漢詩をよくし、性格も兄に劣らぬ剛毅さを持っていた。その点も、油谷倭文子にはない、鵜殿余野子の資質であり、油谷倭文子が姉のように慕ったというのも分かるのである。

 
この兄・鵜殿士寧に漢学を学んだ人に、県門四天王の1人、村田春海がいる。村田春海は、江戸派といわれる巧緻華麗な和歌を詠む一方、江戸漢詩壇で有名な詩人であった。その村田春海が、後年、鵜殿余野子の遺稿集『涼月遺草』を編むことになるのだが、その跋文に「余野子のつくる漢詩などを、折々に見たことがあるが、中途半端な博士などは恥ずかしくなるほどの詠み方だと思う」と記しとどめている。

 
鵜殿余野子は、荷田蒼生子に『古今集』の講義を聴き、若い時は古今集風の歌が多い。冒頭の1首は、家集『佐保川』上巻から、題は「花の歌とて」である。

 
――人が思いを寄せたからといって、それに応えてくれるわけではなく、色褪せてしまう花。その花を空しいことなのに、身を犠牲にするほどに、どうして惜しむのであろうか。

 
時の推移に従って、美しく咲き誇った花もやがては散りゆく。それは、自然の摂理ともいえようが、鵜殿余野子は、そこに花の意思が働いているかのように「相思はでうつろふ花」と、擬人的な表現を用いた。

 
ところが、人事を花に見立てるのは、平安朝和歌の典型的発想の1つである。したがって、この歌を異性に対する恋の歌とみることもできようが、そのように理解するのはむしろ平凡な詠み方となって、面白みに欠けるのではなかろうか。

 
近世の和歌における題の重要性を、現代の我々はもっと認識するべきではないかと考えられる。この歌は「花の歌とて」と題されているように、花そのものを詠んだ歌と理解すべきであろう。つまり、王朝和歌以来の、人事を花に見立てるという方法を踏まえた上で、それを逆用したのである。そして、そのことがこの1首の眼目となっており、そこに近世和歌の新しさが見いだせると思われる。

 
いうならば、この歌は花に対する人の片恋の歌である。身近にあっても、花は人間の力の及ばない自然界のものである。鵜殿余野子は、そのことを知りつつも、花を惜しむ気持ちを留め難いのである。なればこそ、人間に対してならばともかくも、どうして花を身に代えてまで惜しむことになるのであろうか、という下句が鮮明に生きてくるのである。

 
鵜殿余野子は、賀茂真淵自筆の門人録に「紀伊御殿年寄瀬川きよい子(鵜殿余野子のこと)」と記されているように、紀伊徳川家江戸藩邸に仕えていた。出仕の期間はかなり長期間に及んだが、その間国元にも訪れている。また、油谷倭文子が亡くなった年、鵜殿余野子は和歌山の城内にあって追悼歌を詠み「紀伊国にありける時、倭文子身まかりぬとききて」と、詞書に記している。

 

 


 

本居宣長(1730年~1801年)





いその浦の根やはら小菅やはらかに妹と寝る夜は早く明けにけり


 

本居宣長

 

 

 





 
本居宣長は、1730年(享保15年)、伊勢松阪の木綿商人の家に生まれた。その出生地の松阪は、江戸時代から、近江商人と並ぶ伊勢商人の本拠地として知られる土地柄である。

 
なかでも、本居宣長の生家小津家は、江戸の大伝馬町に3軒の店を出す、いわゆる江戸店持ちの豪商であった。後年、本居宣長が「ただ、人げしげく、にぎははしき所の好ましき」と、述べているような都会志向と、江戸と松阪という2つの都市の影響を受けて育ったこととは、無関係ではないだろう。

 
このような富裕町人の家に育った本居宣長ではあったが、生来の学問好きであったため、そこが商人に向かないことを見抜いた母の勧めによって、商人を捨て、医者になるために、23歳の3月、京都に出た。そして、堀景山に漢学を、武川幸順に医学を、著者によって契沖の学問を学んだ。やがて28歳の冬、本居宣長は小児科医となって、故郷に帰ったのだった。

 
しかし、医者としての人生のみに生きるには、本居宣長の才能はあまりにも非凡でありすぎた。やがて本居宣長は、国学の研究に全身を打ち込むことになる。すでに京都遊学のうちに、本居宣長の中では、後に非常に高く評価されることとなる文学論「もののあはれ」論の学問思想が形成されていたのであった。

 
このような独創的なものを内包していた本居宣長であったが、その学問に大きな影響を与えた人物は、以前ここで紹介した賀茂真淵である。賀茂真淵によって『古事記』研究に導かれた本居宣長は、69歳の時に『古事記伝』を完成させた。ただ、2人が実際に出会ったのは、生涯に1度だけであった。あとは、文通によって指導を受けたのである。

 
冒頭で取り上げた歌は、家集『鈴屋集』より、題は「恋」である。初句と第2句の「いその浦の根やはら小菅」は、第3句を導くための序詞として用いられている。初句に字余りがあるものの、第3句に滑らかにつづき、内容に照応した、柔軟な調子の良さを生み出しているのではなかろうか。

 
――磯のほとりに生える根がやわらかで小さな菅、そのように、愛する人とやわらかに寄り添って寝る夜は、いつもより早く明けてしまうことであるよ。

 
本居宣長は、その歌学書『石上私淑言』において、「恋愛と歌」について言及し、自身の「もののあはれ」の説を展開している。つまり、人の生には欲と情とがあり、欲とは、栄誉や財宝を求める心で、実際上の欲求をいう。これに対して、情とは、実際上の欲求を伴わず、喜怒哀楽を感じる心をいい、もののあわれを感じるのは情の方であり、歌はここから生まれる。

 
さらに、人の情で最も大切なものは、恋愛の情である。恋愛の情は人情の自然で、最も、もののあはれなものである。もともと、人情とは女々しげに痴なるもので、それを飾らずに、自然に歌い出すのが、歌である。

 
要するに、女々しさを恥とはせず、そこに価値を見出すのが、本居宣長の文学観であったのだろう。これは、町人出身の自由さゆえの思考であっただろうが、雄々しさを理想とする本居宣長の師・賀茂真淵には、到底許容されない文学思想であったろう。賀茂真淵から、手紙で何度も酷評を受けながらも、本居宣長は自身の和歌文学観に従って、新古今集の歌風を理想としたのであった。

 
ただし、取り上げた歌は、万葉集巻14の「うな原の根やはら小菅あまたあれば君は忘らす吾忘るれや」を典拠とするもので、数は多くはないが、師の理想とする万葉風の歌も巧みに詠んだのであった。

 

 

 


 

油谷倭文子(1733年~1752年)





君をまつゆふべの霜にむすぼほれ招きもあへぬ袖を見せばや


 

油谷倭文子

 

 

 





 
――あなたの訪れを待ちつづけて、私の袖は夜の霜に固まってしまいました。もう、あなたをお招きしようにも、できなくなってしまったこの袖を、お見せしたいのです。

 
歌は20歳で夭折した県門3才女の1人、油谷倭文子の家集『散のこり』からである。

 
油谷倭文子は、江戸幕府の御用商人、伊勢屋油谷平右衛門の娘として、1733年(享保18年)、江戸京橋弓町に出生した。京橋弓町のあたりは、幕府の御用達職人の家が軒を連ねる所である。弓町の他に具足町や畳町、銀座などと称される町々がつづき、将軍家に白魚を献上する白魚役の拝領屋敷も並び建ち、大名屋敷のある木挽町にもほど近い江戸の中心部であった。

 
油谷倭文子は、このような地域で、都市の中産階級の商家の娘として成長したのである。そして、和歌や和文に理解のあった父の薦めによって、1746年(延享3年)、14歳の時、武士層などに多くの弟子をもっていた賀茂真淵に入門した。たちまち、その才気溢れる美少女ぶりが、人々の注目を集めるようになるのである。

 
ところが、その同じ年、加藤美樹も賀茂真淵に入門、油谷倭文子と加藤美樹は運命的な出会いをするのである。この時、加藤美樹は26歳であった。以前、加藤美樹を取り上げた時に紹介したように、幕府大番組の与力であった加藤美樹は、後に県門四天王に数えられ、賀茂真淵期待の門人となったのである。

 
油谷倭文子と加藤美樹の恋愛は、清水浜臣が『泊洦筆話』に記すように一般の人達にも知られていた。油谷倭文子の没後、その若過ぎる死を悼み、賀茂真淵以下の県門の歌人達が追悼歌文集『文布』に歌文を寄せたが、加藤美樹だけが実名を伏せて和歌を載せた話は、勅撰集などの例に因む雅さが好まれて、当時の人達にはあまりに有名なことであった。

 
夭折したため、油谷倭文子の家集は歌数が90首あまりと、決して多くはない。

 
冒頭の歌は、詞書きに「枯れた薄にさしてその人のもとへ贈る」とある。薄の穂が風になびく様子に、人を招くイメージを読み取るのは、源氏物語などに見える古典の1つの型である。油谷倭文子の歌は、このような古典の伝統的世界を踏まえるものが多い。

 
しかし、この歌の詞書きは、その薄が枯れていて人を招くことができないのである。つまり、もうあなたをお招きできないという意味を「霜にむすぼほれた袖」「枯れた薄」というように、歌と詞書きとで、2つそれぞれ違った表現を用いて、二重に述べているのである。ここが、作者・油谷倭文子の最も伝えたかったことなのだろう。実生活での油谷倭文子は1度嫁して、間もなく亡くなる。

 
この語りかけに対する返歌は、次のようなもの。それは、油谷倭文子の贈ったその薄にさして返されてきた。

秋過ぎて心かれ行く花すすき招かぬやどは誰か訪ふべき

――秋が過ぎ去り枯れてゆく花薄のように(あなたの心にも飽きがきて、私から遠ざかったのではありませんか)お招きくださらない家に、どうして訪れることができましょうか。

 
あなたこそ心変わりをしたではありませんか、と相手の男性は言う。そこで油谷倭文子は折り返し、まだ枯れていない別の草にさしかえて「秋が過ぎ、一面に霜枯れしたように見えても、あなたを恋い慕う“思い草”が薄のそば近くに生るのをご存じないのでしょうか」という歌を贈った。

 
この贈答歌の相手は、普通に考えて加藤美樹であろう。加藤美樹は、油谷倭文子の亡くなった翌年、清原葛子という女性と結婚したのであった。

 

 


 

伴蒿蹊(1733年~1806年)





ながむればいづくの花もちりはてて霞に残る春の色かな


 

伴蒿蹊

 

 

 





 
平安地下和歌の四天王と呼ばれる4人の歌人は、保守派の澄月・慈延と、革新派の小沢蘆庵・伴蒿蹊とに分かれる。以前、保守派の澄月、革新派の小沢蘆庵を取り上げているが、今回はもう1人の革新派、伴蒿蹊の和歌を取り上げたい。また、伴蒿蹊はこのコラムにも度々登場しており、そのことにも少し触れておきたい。

 
伴蒿蹊は、小沢蘆庵に続く和歌革新の担い手と目される人である。しかし、小沢蘆庵の和歌革新が香川景樹のそれとともに、華々しく和歌史に特筆されるのに比べて、伴蒿蹊が小沢蘆庵や香川景樹に比肩しうるほど述べられないのはどうしてだろうか。

 
冒頭の歌は「題しらず」とあり、特に題を定めていない。原則として、近世の和歌は題詠といって、歌題に基づいて詠むものである。歌題について学ぶことが、近世の歌人にとっていかに重要なことであったかは、当時の入門的な歌学書を一見しただけでも知られるところである。ここが近代短歌との形式上の大きな相違点である。

 
従って、「題しらず」としたところに、伴蒿蹊の和歌に対する新しい思考を見ることができる。

 
――遠くを見渡してみると、いずこの花も散り果ててしまったが、たなびいている霞には、春の気分が残っているなぁ。

 
すでに花は散り果ててしまったが、そこに春の美しさをイメージしたのが趣向であり、そこに伴蒿蹊の自信というべきものが感じられる。伴蒿蹊の歌は、寛政の頃、『北窓瑣談』にて「蒿蹊は澹白を専一にして、言外に余情を志す、高上の風体なり」と批評されたが、言外に余情のある上品な歌とは、上記のような1首をいうのであろう。当時は、中国から入ってきた「清ら」の概念が人々に受け入れられ、「清新」は文学革新の中心をなす、非常に重要なキーワードであったが、伴蒿蹊のこの歌は「清新の風」を和歌に吹き込んだ、時代の先端を行く1首なのであった。

 
つまり、伴蒿蹊の歌風は、当時の流行であった賀茂真淵一派の古語を用いる歌風とは異なるのである。しかし、澄月のような伝統的な歌風でもなく、古今集を第一とする独自の、新しいものであった。その点こそが、革新派と称される所以である。その一方で小沢蘆庵の、ただ今の思うことをただ今の言葉でのべるという「ただ事歌」については、行き過ぎだと考えていた。そのことが、今日の一般的な文学史において、平明さを徹底させた小沢蘆庵の革新性に評価が与えられ、伴蒿蹊はその陰に隠れがちなのであろう。

 
伴蒿蹊は、小沢蘆庵より10年遅れてこの世に生をうけた。2人が親しく交わったことは、伴蒿蹊が晩年に自撰した家集『閑田詠草』および、小沢蘆庵の『六帖詠草』にうかがうことができる。

 
伴蒿蹊の生家である伴家は、近江の八幡出身の富裕な商家で、8歳の時に畳表や蚊帳を商う本家の跡継ぎとなり、熱心に商いに励んだ。しかし、伴蒿蹊は36歳の時に家督を譲り剃髪するのである。『六帖詠草』には、当時、流池館というところに住んでいた小沢蘆庵のもとへ、髪をおろした伴蒿蹊が訪ねた際、小沢蘆庵が驚いて詠んだ1首が載っている。

おもはずもかはる姿を見つるかなそむかば我ぞそむくべき世に

 
小沢蘆庵は、出家するのならば、あなたより私こそ出家するべきこの世なのに、と語りかけたのである。伴蒿蹊はこう答えた。

なかなかにかはる姿ぞはずかしきそむきても猶そむかれぬ世に

 
なまじっか出家したことがかえって恥ずかしい気持ちがします。出家したと言っても、本当の意味で出家することはできません、と。

 
歌人としての後世の名声は小沢蘆庵に一歩譲るとしても、伴蒿蹊は他の四天王の歌人とは異なり、文章家として高い評価を得た人であることは特筆しても余りある。多くの優れた著作の中でも、特に『近世畸人伝』は、近世を通じて何度も出版され、現在も多くの読者を持つ代表作であることは、よく知られているところであろう。

 

 

 


 

上田秋成(1734年~1809年)





みぞれふり夜のふけゆけば有馬山いで湯の室に人の音もせぬ


 

上田秋成

 

 

 





 
上田秋成は、幼い頃から病弱であった。5歳の時には重い天然痘を患い、手の指が短くなった。悪筆はこのためだと、自らの随筆『膽大小心録』に記し留めている。

 
上田秋成は、1734年(享保19年)、大坂にて出生した。4歳にして、紙油商である上田茂助の養子となった。書物好きであった富裕な養父のもとで養育され、健康に恵まれなかったことが、逆に上田秋成に放任された自由な時間を供与した。

 
正統的な学問を学ぶよりも、書物好きの風流青年として乱読を愛するところに上田秋成の嗜好があった。それが、後の小説『雨月物語』や『春雨物語』にみられるような、独自の文学世界として結実するのである。また、和歌においても、とらわれのない自由な、新しい境地を見せている。

 
上田秋成が和歌を詠み始めたのは、作家としても学者としても一家を成した後の、生涯の後半のことであった。その理由を自らの『膽大小心録』において次のように述べている。「若き時は俳諧と言ふ事を習うて、およそ40ちかくまで是よりほかの遊びはなかりし」と。さらに続けて、40歳になる頃に人が言うには、「和歌を詠みなさい。俳諧は卑しいから」と、述べている。

 
しかし、「和歌を詠むというお公家様の真似ができるものか」と言ったが、勧められるに任せて下冷泉家を訪れ、所々わからないところを質問した。すると、「あなたは詠歌の上に歌学も志すとはよい心がけだ、考えておきましょう」と、おっしゃってくださったが、ついにお答えをいただくことはできなかった。その後、契沖の学問を独学で学び、加藤美樹に師事したと上田秋成は記している。

 
上田秋成の歌文集『藤簍冊子』(6巻)は、72歳、73歳の1805年(文化2年)と1806年(文化3年)にわたって刊行された。和歌500余首に短編小説、紀行、妻・瑚璉尼の文章2編を収めている。

 
冒頭の歌は『藤簍冊子』冬部より、題は「霙」である。下の句にある「いで湯の室」は、共同浴場の浴室である。

 
――みぞれが降り始めた。夜も深まると浴室に通う人の姿はなく、温泉の白い湯煙だけがみぞれをついて立ち昇り、人の居そうな物音もしない。

 
有馬温泉は、江戸時代には京洛大坂の人々にとっては代表的な湯治場であった。京都からは、久世橋で桂川を渡り西国街道を行くルートと、伏見から船を使って兵庫の港まで海路で行くルートがあった。長じてのちも病がちであった上田秋成は、保養のためにしばしば温泉に赴いたのである。

 
すでに医業も廃止した上田秋成が、京都生まれの妻・瑚璉尼の奨めによって、思い切って大坂から京都知恩院門前袋町に居を移したのは、1793年(寛政5年)、60歳のことであった。小沢蘆庵や伴蒿蹊らの歌人、神官の橋本経亮、画家の松村月溪、儒者の村瀬栲亭らと親しく交わって、76歳の夏に羽倉信美の邸(現在の梨木神社東南付近)で没するまでの17年間を過ごした。

 
歌集には、これらの文人たちとの高雅な交わりを示す和歌が載っている。次の歌は、洛東、南禅寺山内に仮寓の上田秋成を小沢蘆庵が訪問して、「あなたの清雅な生活が羨ましい」という意味の歌を贈った時の返歌である。

 
わが庭のさざれ石こす谷水のすむとばかりは人目なりけり

 
「決して私が理想郷にいるのではありませんよ」と、上田秋成は言っているのである。

 
上田秋成は生前、自らの墓を南禅寺境内西福寺に建てた。号無腸にちなむ蟹の形を彫った台座に立つ墓碑には、「上田無腸翁之墓」と刻されている。

 

 

 


 

橘千蔭(1735年~1808年)





隅田河蓑きてくだす筏士に霞むあしたの雨をこそ知れ


 

橘千蔭

 

 

 





 
近世後期に、橘千蔭のかな書きの書が非常に流行した。橘千蔭は、はじめ滝本松花堂の書風から出て、藤原佐理卿、藤原行成卿の書を学び、後に大師流の筆伝を受けるというように、日本の代表的な書風を学んだ人である。

 

 

 

 千蔭流と呼ばれた流麗な書風は、特に歌人たちの間で慕われ、その書を求めて人々が門前市をなしたという。また、模刻がおおいに流行し、10人のうち8人までが千蔭流を倣ったほどである『近世三十六家集略伝』は伝えている。

 

 

 

 人気を博した橘千蔭の書風の流麗さというのは、歌風にも通じるものであった。橘千蔭は、賀茂真淵の和歌の門人であったが、師・賀茂真淵の教えに従わず、村田春海とともに、県門の江戸派といわれる繊細巧緻な歌風をつくりだしたのである。つまり、橘千蔭の歌風の特徴は、賀茂真淵のような豪放雄渾なますらおぶりではなく、野性味のない上品さにあり、新古今和歌集を理想とする。この点においては、本居宣長と共通するのである。

 

 

 

 しかし、本居宣長と相違するのは、橘千蔭の和歌が極めて巧緻華麗であり、洗練された遊戯的な気分に満ちているところであろう。

 

 

 

 そうした橘千蔭の都会の風流人らしい感覚は、江戸幕府の側用人、老中として権勢をふるった田沼意次の時代に、壮年期を過ごしたことを考えると、ごく自然なことといえるだろう。実際、橘千蔭は、田沼意次の側用人として1770年頃(明和・安永期頃)の奢侈の極みの時代を生き、田沼意次失脚後の寛政の改革の時にはすでにその職は辞していたが、減禄の上、100日間の押込を命じられて謹慎しているのである。

 

 

 

 冒頭の歌は、橘千蔭の家集『うけらが花』からの1首で、題は「霞中春雨」である。

 

 

 

 ――隅田川を筏が下っている。その上の筏士が蓑を着ているので、霞むこの朝、隅田川に雨が降っているのが知られる。

 

 

 

 筏士は、連ねた筏に乗って、材木の運送を仕事とする人のことである。ここでは、深川の木場へ向かう隅田川の筏を室内から見ている橘千蔭が、筏士の着ている蓑を見て「ああ、いま雨が降っているのだなあ」と気づき、その軽い驚きを含んだ気持ちを、「雨こそ知れ」で強調しているのである。ここにこの1首の面白さがあり、筏がゆっくりと流れを下る有り様こそが、橘千蔭の歌おうとした大江戸のイメージなのであった。

 

 

 

 しかし、そこに作為が感じられるという批評もできるだろう。ただ、このこぬかのような春雨の降る情景を、流暢な調べにのせ、繊細な神経で捉えるこの詠み方が、江戸派の歌なのであり、橘千蔭の和歌の世界であるといえるのではないだろうか。

 

 

 

 橘千蔭は、生涯を通じて京都を訪れることはなかった。しかし、訪れたいという意志はあったようである。ある時、京都を目指して江戸を立ち、箱根の山の下まで来た時、そのあまりに高く険しい峰々に恐れをなして、上洛を諦めて江戸に戻ったのであった。

 

 

 

 箱根の山を越えることができず、京都を見ることは果たせなかった橘千蔭ではあったが、千蔭流としてもてはやされた書の方は、京都にも入っている。

 

 

 

 例えば、東山区問屋町にある洛東遺芳館は江戸時代、江戸店を持って木綿や呉服、漆器などを商った豪商・柏原家の旧居として知られている。ここで行われる春秋2回の展覧会には、橘千蔭の書も展示されることから、当時の京都の富裕町人層にも橘千蔭の門人や、愛好家が多かったことが窺えるのである。

 

 

 


 

村田春海(1746年~1811年)





心あてに見し白雲はふもとにておもはぬ空にはるる富士のね


 

村田春海

 

 

 





 
1769年(明和6年)10月、江戸の歌壇において圧倒的な勢力を持っていた県門派の総帥・賀茂真淵が没した。賀茂真淵は、非常に多彩な、優れた弟子を多く育てたことで知られるが、賀茂真淵の亡き後の県門派の行方はどのようなものであったのだろうか。

 

 

 

 賀茂真淵の没後に、その門下として江戸の地でもっとも高名になった歌人は、前回取り上げた橘千蔭と、今回取り上げた村田春海の2人である。賀茂真淵が没した時、橘千蔭は35歳の壮年期、村田春海はいまだ24歳という年齢差があった。しかし、2人は賀茂真淵亡き後の江戸で「千蔭・春海」と並び称され、極めて高い人気を得たのであった。

 

 

 

 「千蔭・春海」と併称された理由は、2人の歌風・歌論が、非常によく似ていたからである。それは、師である賀茂真淵とは全く異なって、古今・新古今風の巧緻華麗なものであった。これを江戸派という。

 

 

 

 2人は、賀茂真淵の友人であったそれぞれの父に伴われて、共に10代から賀茂真淵に入門するという共通点があった。だが、橘千蔭は前回述べた通り江戸幕府の与力であったのに対して、村田春海は召し使い100人ほどもいる干鰯問屋を営む江戸の豪商であるというように、身分は異なったのである。けれども、親しく交わり、影響し合って、賀茂真淵亡き後の江戸歌壇の空白を埋め、江戸の国学の伝統をさらに発展させて、後の世に伝えたのだった。

 

 

 

 冒頭の歌は、家集『琴後集』からの1首で、題は「富士の山に雲のはるるを見て」である。

 

 

 

 ――白雲のかかっているところが嶺だろうと思って見ていたが、雲が晴れ上がると、推量していたところは嶺ではなくて、麓であった。富士山の嶺は、それよりもはるかに高い所にそびえていた。

 

 

 

 第4句目の「おもはぬ空」が1首の眼目になっている。初め覆っていた白雲が、やがてさっと晴れていくという時間の経過を通して、群を抜く富士山の高さを感動的に詠もうとし、そのために「おもはぬ空」によって上の句の静穏なイメージを断ち切り、下の句の目の覚めるようなイメージへと転換させるという、趣向の奇想を狙っている。

 

 

 

 1首全体が理知に富んだ趣向によって成り立っていて、これが典型的な村田春海の和歌なのであり、ここに形式の面白さが認められるのではないだろうか。ただ、この理詰めなところが、面白くないという批評もされるのは事実である。

 

 

 

 村田春海は、江戸屈指の豪商であった家の資産を、自らの学問のために蕩尽したことで知られる。優美なことばと典雅な調べを重要視したその歌論『歌がたり』は江戸派を代表する。

 

 

 

 その一方で、村田春海は「われらは儒にして歌をよむ」と主張したように、江戸においては鵜殿士寧に、京都遊学中には皆川淇園に漢学を学んでいる。そして、漢詩集『織錦詩稿』をまとめているように、江戸漢詩壇において名の知られた漢詩人であった。

 

 

 

 村田春海は、江戸の詩壇においては、専ら古典を手本とする古文辞格調派の立場を崩さなかった。しかし、その漢詩と和歌の世界の交流を長歌の中で行う、新しい重要な試みをしている。

 

 

 

 例えば、家集の長歌『詠王昭君歌』。前漢の元帝の宮女でありながら、匈奴の王妃となった王昭君の悲劇という漢詩の題材を、漢詩風の叙述をもって、五七調の流麗な調べにのせて詠んでいて、当時の歌壇において人々を驚かせた1首となったのであった。

 

 


 

慈延(1748年~1805年)





ひとつらは霞にきえて行く跡をみおくる空に帰る雁がね


 

慈延

 

 

 





 
1700年代の後半、京都に現れた4人の優れた歌人を、平安地下和歌の四天王と呼んだことは、すでに述べたとおりである。その4人の和歌における立場は大きく分けて2派になり、革新派の小沢蘆庵・伴蒿蹊と保守派の澄月・慈延となるが、正確にいえば、4人の和歌はそれぞれに異なる。以前、このうちの3人を取り上げているが、今回は最後の1人となっている慈延を取り上げる。

 

 

 

 慈延は信州長野の人である。比叡山に上り天台学を究めたが、俗僧であることを嫌って、洛東岡崎に住んで和歌を詠み、小沢蘆庵と同じく冷泉為村の門に入った。

 

 

 

 慈延は、小沢蘆庵のように自説を主張して師から破門されるというほどの明確な革新性を内包する人ではなかったが、伝統和歌の枠を踏み出す新しさもあった。冒頭の和歌は、「帰雁 離々」と題された1首である。

 

 

 

 ――北国へ帰る雁たちのひと連ねが春霞の中に消えてゆくのを見送っていると、同じ早春の空を、新たな雁が北国をめざして飛んでいくよ。

 

 

 

 帰雁は古今集以来の、春の歌の主要なモチーフであり、その意味で伝統和歌の世界を継承している。しかし、慈延のこの歌は叙景歌だが、単に1枚の絵のような景色を述べるだけではない。作者である慈延の視野の中を、初めの雁の集団が飛び去り、ついで遅れた雁が飛んで行くのであり、1首の中に時の推移を詠み込んでいる。そして「みおくる」によって1首の中に作者の姿をもいい、集団から遅れて飛ぶ雁に心を寄せる心情を詠んでいる。そこに慈延の新しさが認められるのである。同時代の人、橘南𧮾は『北窓瑣談』の中で「大愚(慈延)は新しく面白くよみて、歌学に漢学を兼ね備へて、実に此道の宗匠なり」と記して、慈延の歌が新しく、面白い(趣向がある)といっているのである。

 

 

 

 しかし、後代の和歌史においては、四天王の中で革新派の小沢蘆庵・伴蒿蹊が注目されるのは当然としても、保守派の澄月ほどに慈延は取り上げられることはなかったようだ。その最も大きな理由は、時代の変化であろう。澄月より34年後に生まれた慈延の活動期の京都では、小沢蘆庵に続く香川景樹が時代の寵児となりつつあった。慈延は木下幸文の、澄月亡き後の師であったが、その木下幸文さえもが慈延を離れて香川景樹に入門したことを、知人に宛て次のように手紙に記している。

 

 

 

 「木下もこの節は、上岡崎へ移り居り候。切支丹(香川景樹のこと)の宅近く候故、邪路に落入り候はんと気の毒に御座候。甚心高く候故、中々諫めも入れ難く相見え候。 大愚」

 

 

 

 香川景樹を切支丹と呼び、その和歌を邪路と称したところに、時代から取り残されていく保守派の慈延の苦渋が窺える。とはいえ、慈延は擬古派の祖ともいうべき契沖の歌風についても「契沖といふものいでて、世の歌よみの風いやしく、あしざまになりしが」と厳しく批判している。

 

 

 

 ともあれ、平安地下四天王が活躍した18世紀後半は、一般の人たちの間で和歌の人気が急上昇していた。前掲の『北窓瑣談』は、「和歌は近き頃別して、貴賤とも弄び盛なる事なれども、古人には及ぶべくも見えず」と記しとどめている。

 

 

 

 詠歌人口が爆発的に増大したのに対応するように、京都で4人の非凡な歌人が立場を異にしながら活動し、和歌の詠みぶりにさまざまな風を生み、自由に高度に発達したのであった。それが近世後期という時代なのである。

 

 

 


 

良寛(1758年~1831年)<前編>





山かげの岩間をつたふ苔水の幽かに我はすみわたるかも


 

良寛

 

 

 





 
――山陰の岩間を伝って流れる苔の下水のように、私は人に知られることもなく細々とこの世に生きていることだよ。

 
詩、歌、書という3つの芸術分野で、いずれにおいても近世屈指の達人と評される良寛は、一方で何ものにも拘束されることなく、自由な生涯を送った人としても知られる。もちろん、書を嗜む人は、良寛について良くご存知のことであろう。

 
1758年(宝暦8年)12月、良寛は、越後三島郡出雲崎の名主で、神職をも兼ねていた山本左門泰雄(伊織とも)の長男として出生した。13歳で大森子陽に儒学を学び、18歳頃に名主見習となったが、ついに名主を継ぐことはなかった。22歳の時、備中玉島(現在の倉敷市)の円通寺に入り、後に諸国行脚に出た。郷里には39歳頃に戻ったが、生家に帰ることなく、国上山の五合庵や乙子神社境内などに庵住した。晩年、愛弟子の貞心尼と交わした贈答歌は良く知られている。

あづさゆみ春になりなば草の庵をとく出て来ませあひたきものを

――春になったら、あなたのお住まいをいち早く出ていらしてください。お逢いしたいのですもの。

 
貞心尼が編んだ良寛家集『はちすの露』からである。死の前年の冬に詠まれた歌で、「あづさゆみ」は春の枕詞である。その年の秋頃から良寛は気分がすぐれなかった。気遣った貞心尼が詠み贈った歌に答えたのであった。その時の貞心尼の歌は、次のようなものである。

そのままになほ堪へしのべいまさらにしばしの夢をいとふなよ君

 
おそらく良寛は、間もなく迎える死を悟っていたのであろう。春までは待てない、一刻も早く会いたいという焦燥感が、結句「あひたきものを」ににじみ出ている。しかし、心やさしい良寛は、雪深い越路を女性の足で越えることを望んだりはしなかった。「春になりなば」に良寛の自制の心が読み取れるが、その「春」に良寛は74歳の生涯を閉じたのであった。

 
この時、貞心尼は新組村福島(現在の新潟県長岡市福島)の閻魔堂に住み、良寛は三島郡島崎村の木村家にいた。とはいえ、歳末が近づくに従って、良寛の病状は予断を許さなくなってくる。ついに雪道をおして貞心尼は駆けつけた。病床の良寛は、嬉しさのあまりこのように詠んだ。

いついつと待ちにし人は来たりたり今はあひ見て何か思はむ

――いつ来るか、いつ来るかと待っていた人はついにやって来た。こうしてお目にかかった上は、どうして物思いなどいたしましょう。

 
「来たりたり」の表現に見られるような、無垢な純真さが良寛の歌の魅力である。また、同音を重ねてリズミカルな響きを生む。良寛は和歌の師を特にもたなかったが、個性的で独自な和歌の世界を創出した人であった。その要素の一つに、独特な音楽性が挙げられる。つまり、枕詞や接頭語を用い、同音を重ねるなどの手法の中に、良寛特有の清高なリズムがある。

 
冒頭の歌は、良寛の代表作といえる1首である。自らの脱俗の風を詠む内容と、遅緩のない表現が即応している結句「すみわたるかも」は、水の澄むこと、そのように心が澄むこと、さらに幽かに住みつづけることを言っている。良寛は片田舎にあって、この歌のように、人知れず山陰の苔下水があたかも一筋の生命の水となって流れるかのごとく生きたのであった。その虚飾のない生き方と同じく、歌は良寛にとって生活の自然な表現そのものであった。

 

 


 

良寛(1758年~1831年)<後編>





月よみの光を待ちて帰りませ山路は栗のいがのしげきに


 

良寛

 

 

 





 
――月の光が射すのをまってお帰りなさいませ。山路は栗のいがが多く落ちていて危ないですから。

 
良寛は、47歳の1804年(文化元年)から再び国上山の五合庵に住んだ。この頃の良寛は、静かに読書や書学に時を過ごし、詩歌を作り、食べ物がなくなると托鉢に出た。或いは、いろいろな知人から味噌や豆といった食料を贈られ、自らも野草の芹やあかざなどを採っては食していた。このような五合庵での生活を通算18年間送ったのである。この時こそ、良寛が最も良寛らしい生活を営んだとされる時期であり、良寛調といわれる独自の芸術基盤が、ここでの修業で形づくられたと考えられる。

 
そうした粗末な暮らしを、良寛は「五合庵」と題して漢詩を作っている。

索索五合庵    索々たり五合庵
室如懸磬然    室は懸磬のごとく然り
戸外杉千株    戸外には杉  千株
壁上偈数篇    壁上には偈  数篇
釜中時有塵    釜中時に塵有り
甑裡更無烟    甑裡さらに烟無し
唯有東村叟    ただ東村の叟有りて
頻叩月下門    しきりに叩く月下の門

 
――五合庵はわびしいところだ。貧しい室内は、これといって何もない。戸外には杉の木立が深く、壁上には詩偈が数篇貼ってある。釜は埃がたまったりし、せいろも炊煙をあげない。こんなわび住まいにも、麓の村から老人が月下に遊びに来てくれる。

 
良寛の清高の風を尊敬して、五合庵を訪れる人は少なくなかった。訪れる人の多くは土地の有力者で、その中の1人に渡部村(現在の新潟県燕市渡部)の庄屋役を勤めた阿部定珍がいた。阿部定珍は良寛より20歳年少、阿部家7代目造酒右衛門のことである。江戸に出て学問を修め、詩文和歌に長じた人であった。

 
冒頭の歌は、その阿部定珍に贈った1首である。阿部定珍は、頻繁に五合庵を訪れ、2人の唱和した多くの歌が、今も阿部家に伝わっている。「月よみ」とは、月の神をいうが転じて月のことで、『万葉集』に「月読の光に来ませあしびきの山きへなりて遠からなくに」などがある。良寛の歌は自然な倒置法で、上句に語り尽くしてなお友を引き止めたい気持ちが会話表現で述べられ、下句には友への溢れるような思いやりがにじみ出ている。月光、山路、栗という閑雅で清高な山間のわび住まいを思わせる語を、優美に用いているのも巧みであろう。後年、斎藤茂吉は、「何とも云へないやさしい心の歌である。堪へられない程よい心の歌である。」とこの歌を称揚している。

 
ところで、訪れたのは阿部定珍の方ばかりではない。良寛もしばしばこの外護者、阿部家を訪ねた。ある時は、以下のような手紙を贈っている。

 
定珍老    良寛
 
今日  人遣し候  何卒
 
みそ少々御かへ
 
たまはる可く候

 
酒造家であった阿部家のおいしい、麹入りの味噌と、他の家からもらってあった味噌を交換してほしいと頼んでいて、いかに2人が親しく交わっていたかが知られる。

 
こうして良き理解者に恵まれ、心のありのままの生活を送った良寛であったが、人の子らしく母を思慕する心を次のように詠むこともあった。

足乳根の母の形見と朝夕に佐度の島根を打ち見つるかな

――(佐渡出身の)母の形見と思って朝夕に佐渡の島を見ることであるよ。

 


 

香川景樹(1768年~1843年)<前編>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妹といでて若菜摘みにし岡崎の垣根恋しき春雨ぞふる

 

 

 

 

 

香川景樹

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  近世の岡崎は、洛外の地である。香川景樹の本宅は、ここに在った。これとは別に、木屋町に別宅をこしらえ、冬の間はここで歌想を練ることが多かった。けれども、香川景樹にとっては本宅の岡崎の方が何かと居心地が良かったのだろう。例えば、41歳の1809年(文化6年)の暮れのことである。大晦日になって、岡崎に移動することになった様子を『桂園遺稿』に「去年の師走から木屋町の別宅に移っていた。新春にはいつものようにと人も言い、妻も言うので昨日の晦日から岡崎の家にしばらく帰っている」と記している。寒気を避けて町の中に居た香川景樹も、正月は岡崎で過ごし、門人たちの年賀を受けている。

 

 

 

  しかし、冒頭の歌では、ある年、そのように岡崎に戻ることができなかったのである。

 

 

 

  ――春雨が降っている。この春雨によって、妻とともに家の外に出て若菜を摘んだあの岡崎の家の垣根が懐かしく思い出されることよ。

 

 

 

  郊外の岡崎は、家を少し出ると若菜を摘むこともできた。春雨に触れて香川景樹は、若菜摘みをイメージする。それが、この歌の場合は『古今集』紀貫之の「春日野の若菜つみにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ」(春日野の若菜を摘みにということで、白い衣の袖を振って、わざわざ乙女たちが行くのかしら)に詠まれたような美しい女性のイメージと重なるのである。その優美なイメージを自然の声で詠むことが、香川景樹の和歌の理想であった。

 

 

 

  この歌の歌題は「事につき時にふれたる」というもので、これは香川景樹が考え出したスタイルの歌題である。日常の何気ないひとコマを詠み、いわゆる伝統和歌の歌題の拘束から完全に逃れるものであった。古典和歌において、和歌は題によって詠むというのが基本の詠み方であった。香川景樹が家集『桂園一枝』『桂園一枝拾遺』に、特にこの「事につき時にふれたる」の部を設けたのは、「調べの説」を主張しようという試みであった。そして、この部に香川景樹の秀歌が多いのである。

 

 

 

  香川景樹は、生涯に少なくとも1万首の歌を詠んだという。因幡国鳥取藩士荒井小三次の二男に生まれた香川景樹は、26歳の頃に上京した。二条派地下の宗匠梅月堂香川景柄の養子となったが、小沢蘆庵を知り、小沢蘆庵の「ただこと歌」の影響を強く受けて、香川景柄の歌風から次第に離れ、離縁したのである。香川景樹の清新な歌風は世人を刮目させたが、一方で伝統和歌の人たちなどから、前代未聞ともいえる激しい非難攻撃を受けた。しかし、彼は屈しなかった。詠歌数の多さのみならず、多くの優れた歌論を残し、作歌・歌論ともに近世和歌における最高峰を築いた歌人であると評価されている。

 

 

 

  香川景樹は前述したように、『古今集』の優美な歌風を理想とするが、歌は誠実の情から出た自然の声であるべきことを説く。そして、「調べ」を強く主張した。すなわち、「歌は理るものにあらず、調ぶるものなり」(歌は理義をいうものではなく、また考慮工夫を加えるものでもない。調べ、つまり、1首の姿、詞のつづけがらが大切であり、歌の想と相応する辞句を用いなければならない)という、有名な主張である。そして1首が気高く優美であるべきで、仮にも凡卑の調べに落ちないようにすべきと説く。用語については、歌詞というものを特別に認めず、その時代にある言葉を用いて、誠実の思いを述べるべきであるとする。

 

 

 

  簡略にいえば、香川景樹は和歌における内容と形式の調和を非常に重視し、さらに優美であらねばならないというのであった。

 

 

 


 

香川景樹(1768年~1843年)<後編>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心なき人はこころやなからましあきの夕べのなからましかば

 

 

 

 

 

香川景樹

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  家集『桂園一枝』に収められる歌で、題は前回に述べた「事につき時にふれたる」である。香川景樹は、この歌に自注を施しており、それが門人に対する講義という形でなされたので、非常に具体的であり面白いのである。

 

 

 

  「同じ言葉を重ねて31文字を作る。心なき人というのがどのような人かというと、初雪に小便をするような人のことである。秋の夕べなどの情趣には、心のとまらない人である。(中略)秋の夕べになれば、老若男女ことごとく物あわれになるものだ。幼子のひとり飯食ふあきのくれ、という句もあるほどに秋の夕べになると風雅を解さないような人も風流心が出来てくる。だから、秋の夕べがなかったら、心なき人は、ないないづくめになるのである。」(桂園一枝講義)

 

 

 

  ここには、香川景樹の新しい和歌解釈の方法がはからずも提示されている。その1つは、心なき人とは初雪に小便をするような人、といった日常卑近な例をもって「心なき人」の意味を説き、発句を用いて風流心を述べるといった方法である。

 

 

 

  もう1つは、伝統和歌との関係を断ち切って、古典を解釈に持ち込まないという方法である。つまり、この歌を伝統和歌の側から解釈すると、当然のように、三夕の西行法師の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」(ものごとの情趣を解することのできない私のような者にも、しみじみとした情感が知られることだ、この鴫の飛び立った後の沢の秋の夕暮れよ)の影響を論じることになるであろう。しかし、香川景樹は作歌の時点では西行の歌が念頭にあったはずだが、自注にはそのことは一言も触れていない。それは、伝統和歌の超越を意味するものであり、そこが香川景樹の和歌、すなわち桂園派の新しさなのである。そして、この平明さが、3000人ともいわれる門人に慕われた魅力なのであった。

 

 

 

  また、香川景樹は、人間の心というものに強く思いを馳せた内省的な歌をもしばしば詠んでいる。次は「夜述懐」と題する1首である。

 

 

 

明けぬればかならず覚むるものにして寝る宵々ぞはかなかりける

 

 

 

  ――人の命は、夜、床についてそのまま目覚めないとも限らないものである。けれども、夜が明けると必ず目覚めるということで、明日があると思って寝る夜というものは、考えればはかないことである。

 

 

 

  今日と同じように明日があると思う人間の心を、鋭く洞察しようとする香川景樹の姿がある。

 

 

 

  一方で、香川景樹は行動的な人でもあったようだ。51歳の1818年(文政元年)に成立した『中空の日記』は、江戸から伊勢に至る旅日記で、翌年刊行された。香川景樹は、江戸に出て新たな門人を得ようとするが、思うにまかせず江戸を去って伊勢に向かった。香川景樹の門人が爆発的に増加するのは、門人録が1828年(文政11年)から記録されるように、江戸下向以降のことであった。

 

 

 

  その『中空の日記』には、富士山に感動する思いが美文で綴られているが、次の歌はまた、香川景樹の叙景歌の代表作の1首である。

 

 

 

富士の根を木の間木の間にかへりみて松のかげふむ浮島が原

 

 

 

  浮島が原は、北に富士山を仰ぎ、南は海、東西には長い沼が続く、東海道の名所である。香川景樹は、旧暦の11月9日にこの歌を詠んだ。富士山は真っ白に雪をいただいていたはずである。上句がその富士山の遠景、下句が作者の踏みしめていく道という風に、1首の中に立体間を巧みに詠み込んでいる。しかも、自然な調子を崩さずに1首が引き締まって巧みではなかろうか。

 

 

 


 

清水浜臣(1776年~1824年)





氷とはいかで見ゆらむ偽りをただすの河にさゆる月かげ


 

清水浜臣

 

 

 

 




 
江戸の医師であった清水浜臣は、村田春海の門人である。清水浜臣は、師・村田春海や橘(加藤)千蔭に代表される江戸派を受け継いで、その歌風は濃厚な王朝趣味と、上品で優麗典雅な趣を特徴とする歌人であった。例えば、次のような能楽「隅田川」を想起させる、清水浜臣の代表的な1首がある。

すみだ川舟よぶ声もうづもれて浮霧ふかし秋の夕波

――舟を呼ぶ声もその中に埋もれてしまうほどに、川波の上に一面にかかる霧が深い、隅田川の秋の夕方の景は。

 
清水浜臣は1792年(寛政4年)、17歳で村田春海に入門した。和歌や国学への志向は、谷口楼川門下の俳人であった父・道円の影響もあった。江戸で父から受け継いだ医を業としながら、上野の不忍池畔に住み、水を愛し、池を琵琶湖に見立てて泊はく舎と号して、和歌や国学の道を究めた。

 
そして、清水浜臣にとって家の本業はあくまで医であり、和歌や国学ではない、という意味の次のような歌も家集『泊はく舎集』に残している。

もとよりも家につたへぬ風なれば吹きのこすべきことの葉もなし

――もともと、和歌は自分の家に代々伝えるものではないのだから、後の人に伝えおくべき言葉もない。

 
しかし、これは自身に対する、ある意味で逆のメッセージであろう。後に記すような清水浜臣の旺盛な著述がそれを物語っているのである。清水浜臣は、自分の家に伝えることのない文学や学問であるからこそ、出来うる限りの著述を残し、自身の学問の可能性を後の世に問おうとしたのであろう。

 
さらに清水浜臣は、和歌のみならず、文章においても師・村田春海に次ぐ高い評価が与えられた人であった。清水浜臣は1824年(文政7年)、49歳で亡くなるまでに、実に多くの著述を残しているのである。
 
その中のいくつかを挙げれば、県門の歌人たちの歌文をまとめた『県門遺稿』や、『月詣和歌集標註』『唐物語標註』『庚子道の記』などは刊行されたものである。その他、内容の面白さで群をぬく『泊はく筆話』、晩年の1820年(文政3年)2月~9月にかけて、京都や大阪・伊勢に遊んだ時の記録『遊京漫録』『近葉菅根集』、辞典『語林類葉』など未刊行の著も多い。

 
冒頭の歌は、家集より、題は「社頭冬月」である。冬の賀茂社を詠んでいる。旅行を好んだ清水浜臣は、上洛して賀茂社の祭りを見物したことが『遊京漫録』にも見える。また、城戸千楯らの、京の本居宣長門人のグループ鐸舎の人々とも歌会をもっているのである。

 
――冴えわたって、あまりに美しいとはいっても、川面に映る月光がどうして氷のように見えるのだろうか。この川は、偽りを糺すことで知られる糺の森に流れる川なのに(こんな風に人の目を欺くとは)。

 
この歌には、『枕草子』のイメージが投影されている。その182段に、初出仕して間もない清少納言が、中宮定子に忠誠の心を述べる場面がある。その時、折悪しく、音高くくしゃみを響かせた人がいたのである。くしゃみのせいで、清少納言の誓いが嘘だということになってしまった。中宮定子は、「糺の神がいらっしゃるから、そなたの嘘がわかったのですよ」という意味の御製を清少納言に与えたのであった。清水浜臣の歌も、偽りを糺す神の座す森、糺の森が1首のキーワードになっているのである。

 


 

木下幸文(1779年~1821年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年さへかくてくれぬと故郷の空をあふぎてなげきつるかな

 

 

 

 

 

木下幸文

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ――今年こそはと思ったのに、その今年さえもこんな状態で暮れてしまったよ、と故郷の空を仰いで嘆いていたことであるよ。

 

 

 

  木下幸文は、備中国浅口郡長尾村(現在の岡山県倉敷市)の中農の子として1779年(安永8年)に生まれ、1821年(文政4年)に43歳で没した。桂園派を率いる近世後期の代表歌人、香川景樹の門に入り、熊谷直好と共に桂園の双璧といわれた。門下第一の歌学者であり、西山拙斎について漢詩もよくした。

 

 

 

  木下幸文の庇護者として支えた人に、小野猶吉がいる。小野猶吉は、木下幸文の生まれ育った長尾村の豪農で、士分の小野家の当主であった。歌人でもあった小野猶吉は、早くから木下幸文の才能を認めていた。1794年(寛政6年)2月、16歳の木下幸文を伴って上京した小野猶吉は、同郷の故もあって早くから師事していた澄月(その時81歳、平安四天王の1人に数えられていた)につかせて、本格的に和歌を学ばせ始めたのであった。この時は、約4ヶ月という短い滞在であった。

 

 

 

  木下幸文は、初めて岡崎に寓居して、嵐山での桜狩りや南禅寺の新緑を訪ねたりしながら、京洛の歌人たちと交わるという京都遊学の経験をしたのであった。因みに、小野猶吉の子息・小野務は、後に木下幸文の門に入って「詠史百首」などで知られる歌人となった。

 

 

 

  1806年(文化3年)3月、28歳の木下幸文は、それまで学んでいた澄月、慈延などの堂上系の和歌を捨てて、赤尾可官の紹介によって正式に香川景樹に入門したのである。時に文化文政期の絢爛とした近世文化が江戸を中心に華やかに開花していたが、香川景樹の門人、桂園派の人々は決して華やかなほどの経済的な豊かさはなかった。香川景樹自身も「門人の謝金は1年に100匹(4分の1両)なるが最上なりし上に、3000の門人の中にて、終始撓まぬは数ふるばかりなりき」と記しており、その生活は楽ではなかった。

 

 

 

  入門後の木下幸文は、病と貧困に悩まされていた。しかし、創作意欲は決して衰えることなく、1807年(文化4年)の大晦日から翌年正月3日にかけて、困窮生活を赤裸々に詠んだ「貧窮百首」と題する百首和歌を作った。山上憶良の「貧窮問答歌」にならって名付けたのである。

 

 

 

  冒頭の歌は、その巻頭の1首である。木下幸文は郷里を出て、一事に3年を没頭するつもりで励んだが、成功したとは言い難く、岡崎の香川景樹宅の近くの借家で貧窮に喘いでいたのであった。父は既になかったが、母や友人のことを思い、悲しみのうちに年を越さねばならなかったようである。「かにかくに疎くぞ人のなりにける貧しきばかり悲しきはなし」という歌もあって、貧しさゆえに人が去っていくと言うのである。しかし、100首に見られる詠み口は、万葉風の力強さを備え、伝統的な和歌の世界に縛られることなく、自由で清新な魅力に溢れている。

 

 

 

  木下幸文の家集『亮々遺稿』(3冊・1600余首)は、門人・浅野譲の編集で、没後の1847年(弘化4年)頃に刊行された。

 

 

 

さざなみの比良の遠山雪ふれば都の物となりにけるかな

 

 

 

  積雪の比良の嶺がくっきりと浮き立つのを、都の景物となったと見る1首である。桂園派の特質である温雅さに、着想の新鮮さを加えている。

 

 

 

雨のあしなびきて見ゆる雲間よりかけわたしたる虹のはしかな

 

 

 

  虹を印象派の絵画風に詠み、化政期文化の絢爛華麗な感覚を写すなど、豊饒な詩才と豊かな歌学に裏打ちされた詠風が、木下幸文の歌の魅力といえるのではないだろうか。

 

 

 


 

熊谷直好(1782年~1862年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝霧のたえまたえまに色見れば秋の花野もうつろひにけり

 

 

 

 

 

熊谷直好

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ――朝霧の中、野の道を歩いていると、霧の絶え間に秋の花野の様子が見える。しかし、その花の色もあせてしまって、もう今年の秋も終わりに近づいたなぁ。

 

 

 

  家集『浦の汐貝』からの1首で、題は「物へ行く道にて」である。秋の静かな日の朝早く、熊谷直好は所用で行く途中に野道を通った。秋が深まるとともに霧が深くなる。はじめのうちは熊谷直好も霧の中を歩いているのだから何も見えない。だが、そのうちに霧が少しずつ薄らいできて、その絶え間に花野が見える、という場面設定である。歩いている時間の経過と秋野の変化する時間の経過と、「時間」を文脈にして1首が構成されている。花野に絹のような朝霧の漂う光景は、雅馴な中に絵画的な美しさを備えている。

 

 

 

  熊谷直好の歌は、平淡優麗なものが多い。家集からもう1首挙げる。

 

 

 

いぶき山つねもかかれる白雲の重なる夏になりにけるかな    (首夏雲)

 

 

 

――伊吹山には、ふだんもかかっている白雲が、さらにたくさん重なる夏になったことだよ。

 

 

 

  平淡な中に繊細な温雅さが感じられる。桂園派の美しく上品な詠み口をよく示しているといえる。熊谷直好は、師・香川景樹の風をよく受けて、香川景樹及び桂園一門に重んぜられた。木下幸文とともに桂園の双璧と目されたが、木下幸文に比べて熊谷直好の方はなだらかな詠みぶりで、木下幸文のような熱がない。そこが門外から平弱の謗りを受けるところともなった。熊谷直好には参禅の経験があり、禅の閑寂な恬淡さに影響を受けるところがあったのではないだろうか。

 

 

 

  熊谷直好は1782年(天明2年)、周防国岩国藩の世臣の家に生まれた。父は武田流軍学の師範であった。熊谷直好は、幼い頃から学問に勤め、博識で、身体は人並みはずれて大きかったという。

 

 

 

  後に師と仰ぐ香川景樹とは、岩国藩という共通点があった。1796年(寛政8年)に、香川景樹が妻・包子と共に夫婦養子として入った梅月堂香川景柄の家は、岩国藩家老香川家の京都分家であったからである。熊谷直好は、その縁があって郷里と京都を往き来して、16歳から香川景樹に和歌を学ぶことができた。しかし、後に香川景樹が養家から離れる事態となった時、藩と香川景樹との間に在って進退窮まり、ついに脱藩し、妻・於春と息子・鉄之助を従えて京都に上り、後には大坂に移って歌学に専念したのであった。

 

 

 

  熊谷直好は、歌論においても香川景樹と同じく『古今集』の歌を理想とした。香川景樹の没後の1845年(弘化2年)、『古今集』の香川景樹説の解釈を巡り、熊谷直好と八田知紀とが論争を展開する。そのことについて、明治になって森鴎外が『しがらみ草紙』22号で論評を加えている。それは、「香川景樹の『古今集正義』について熊谷直好と八田知紀と争い論じたところは要するに左の数条にすぎない」として、2人の論争の論点を4ヶ条にまとめた。つまり、歌の本質・歌の理想・歌は専門の芸か否か・歌と治道の関係である。そして、各条について詳しく述べた上で、明確な判定を下している。

 

 

 

  ここで詳述することはしないが、各条の結論だけを取り上げると、第1条は「天美を抑え、術美を揚げ、古今集を以て独秀でたりとする…熊谷の説を通ぜりとする」。第2条は「八田が説を精しとする」。第3条は「2人の説を持(引き分け)とする」。第4条は「八田が説を卓といおう」となっており、森鴎外は八田知紀にやや高い評価を与えている。このように、森鴎外は近世後期和歌の文芸評論ということもなしているのである。

 

 

 


 

大田垣蓮月(1791年~1875年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はらはらと落つる木の葉にまじりきて栗の実ひとり土に声あり

 

 

 

 

 

大田垣蓮月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ――秋風が吹いてはらはらと散っていく木の葉に交じって、ひとり栗の実だけが地上に落ちて音をたてている。

 

 

 

  家集『海人の苅藻』からの1首で、題は「秋山」である。

 

 

 

  幕末の女流歌人の中で、高い評価を得ているのは大田垣蓮月である。大田垣蓮月は1791年(寛政3年)、京都三本木に生まれた。生後間もなく、知恩院門跡の坊官であった大田垣伴左衛門光古の養女となり、名を誠といった。幼い頃から聡明で、和歌は勿論、長刀、剣術などの武芸にも秀でていた。初婚の夫・大田垣望古は離縁の後に亡くなり、再び迎えた養子・大田垣古肥も病没した。失意の大田垣誠は、その直後33歳にして剃髪し、大田垣蓮月と改めたのであった。しかし、不幸は続いた。1832年(天保3年)、77歳の養父を亡くした大田垣蓮月は、すでにその時までに5人の子どもにも早世され、文字通りの天涯孤独の身となったのであった。

 

 

 

  その寂しい余生を、岡崎や東山知恩院など鴨東の土地を転々として暮らした。冒頭の歌は、そのような大田垣蓮月の心に映じた日常の一風景であり、代表作とされる1首である。

 

 

 

  晩秋の山の麓に人気はなく、冷え冷えとしている。地上に散り敷いた木の葉の上に栗の実が時折落ち、そのカサリカサリという乾いた音だけが、静寂を破るのであった。大田垣蓮月は孤独である。「栗の実ひとり」とした擬人的な表現の中に、孤独な心が素直に表出されている。

 

 

 

  しかし、第5句の「土に声あり」には、孤独の中でしなやかに生きる、大田垣蓮月自身の力強さが詠み込まれているのである。大田垣蓮月の歌が評価される魅力の1つに、自身の置かれた境遇をしなやかに乗り越えようとする力強さといったものがあるのではないだろうか。

 

 

 

  ところで、大田垣蓮月は橘曙覧と風雅の交わりがあった。1861年(文久元年)、橘曙覧は伊勢神宮に参詣した後、京都に滞在した。橘曙覧の親戚にあたる福井藩の医師・安藤精軒の京都の家に逗留した橘曙覧は、丸太町筋の川東に住む大田垣蓮月の住居を3度にわたり訪ねた。その様子を紀行文『榊の薫』に以下のように記し留めている。

 

 

 

  案内人が、咲き乱れる秋の花を押しわけて柴の戸をたたくと、中から「どなたですか」と声がした。「越(越前)の曙覧というものです」と言うと、少し驚いてとり急いだ様子で出迎えてくれる。(中略)大変喜んでくれて「かねがねお会いしたく思っておりましたが、目の当たりにこうして対面できるとは夢にも思っていませんでした」などと、何度もねぎらってくれる。

 

 

 

  この時、大田垣蓮月は71歳、橘曙覧は50歳であった。2人はゆっくりと語り合い、明日から頼山陽の山紫水明処(当時は安藤氏の所有であった)に滞在すると告げる橘曙覧に、大田垣蓮月が「仮住まいは物も不十分だろうから」と言って、手焼きの大きな急須とお茶を進呈するという形で、その日は別れるのであった。

 

 

 

  翌日、橘曙覧はその急須を用いて酒を温めようとしたところ、火勢が強すぎて急須を壊してしまう。橘曙覧は、「申し訳ないと思うけれど仕方ない」と残念がった。

 

 

 

  大田垣蓮月が自ら焼いた陶器は、自詠の歌を彫り付けて「蓮月焼」と言われ、世に大いに流行した。これが、大田垣蓮月の生活の資ともなっていた。

 

 

 

  この時、大田垣蓮月のもとで14年間の長きに渡って、近くの山に土を採りに行ったりする雑用を務めていた少年が、実は後の富岡鉄斎であった。時に27歳、長崎遊学へ旅立ったのは、この後間もなくのことであった。

 

 

 


 

八田知紀(1799年~1873年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月清み寝ざめてみれば播磨潟むろのとまりに船ははてにき

 

 

 

 

 

八田知紀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ――月の光があまりに清らかなので、自然に目が覚めると、いつのまにか播磨潟の室の泊まりに船は停泊していた。

 

 

 

  家集『しのぶぐさ』から、題は「むろのとまり」である。詞書に「はじめて都にのぼりける時の紀行の中」とあって、故郷の薩摩を出発してから京都に到着するまでを詠んだ30首のうちの1首である。

 

 

 

  この初めての上京は、1825年(文政8年)、27歳の8月10日のことである。かねてから京都で和歌を学びたいという強い希望を持ち、上京を願い出ていた八田知紀に対し、願いが入れられ、同月、京都藩邸蔵役人(蔵米の出納を担当する役人)が命じられたばかりであった。

 

 

 

  後に、これまでに取り上げた、熊谷直好や木下幸文らと香川景樹の桂園の高弟と称される八田知紀は、鹿児島藩士・八田善助の長男として生まれ、桃岡と号し、幼名は彦太郎、のち喜左衛門と名乗った。

 

 

 

  冒頭の歌は、8月8日のころ、室の泊まりに入港した時の詠である。海上を照らす初秋の月の、陸上とは異なる清澄な美が作者の感動の中心である。言うまでもなく、初句の「月清み」が1首の主眼になっている。

 

 

 

  清いのは月の光ばかりではない。空の明澄さでもあり、月を映す海の清冽さでもあり、真夜中の海をわたりくる風の清涼でもある。江戸時代後期に1つの美的理念として高い評価を与えられた「清ら」、この歌は室の泊まりを具体的な通路として、さまざまな「清ら」の美を捉えて詠んでいるところが巧みである。

 

 

 

  上京した八田知紀は、その年のうちに公家の富小路貞直卿の月次会に出席する一方、翌年の夏には香川景樹を訪ねて和歌の教えを請い、本居宣長の門人・城戸千楯のもとで万葉集読書会に加わるなど、精力的に和歌・歌学を学んだ。ただ、正式に香川景樹の門に入ったのは、桂園入門名簿に記されるように、1830年(天保元年)32歳の時であった。

 

 

 

  熊谷直好の16歳、木下幸文の26歳での入門に比して、さらに遅い入門であったが、めきめき頭角を表した。ある年の桂園社中の歌会に「月前落葉」という題で詠んだ時、いち早く座を離れた八田知紀の詠草「あしびきの山の木枯たちにけり木の葉にくもるありあけの月」を見た熊谷直好は、「このような秀歌が詠まれた以上は私は詠むのはよそう」と言った、というようなエピソードが、明治22年から刊行されはじめた森鴎外らの文芸誌『しがらみ草紙』21号に記されている。

 

 

 

  このエピソードは、八田知紀が叙景歌に長けた人であったことを示している。18歳年長であった熊谷直好が、才気のある後輩・八田知紀に兜を脱いだことがあったのだろう。八田知紀の代表的な叙景歌として、次の1首はあまりにも有名である。

 

 

 

よしの山霞のおくは知らねども見ゆる限りは桜なりけり

 

 

 

  後に、八田知紀と熊谷直好は、師・香川景樹の『古今集』の説について論争を展開していることは、熊谷直好を取り上げた時に述べた。八田知紀は、前述したように『万葉集』に関心を持った時期がある。八田知紀の平明な詠歌は、例えば冒頭の歌などに、後年斎藤茂吉が高い評価を与えている。

 

 

 

  また、その八田知紀と熊谷直好の論争を『しがらみ草紙』22号に取り上げ、森鴎外が判定をくだしていることも以前に述べている。このことは当時、桂園派が世間の注目を集めていたことを物語るが、それは八田知紀が1872年(明治5年)に、明治新政府に登用され、宮内省歌道御用掛を拝命したためであろう。また、八田知紀は近衛家の裏方となった島津貞姫に仕えて、勤王運動にも関係があったといわれている。

 

 

 


 

加納諸平(1806年~1857年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山賊がけぶりふきけむ跡ならし椿のまき葉霜にこほれり

 

 

 

 

 

加納諸平

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ――きこりがたばこを吸った跡であるらしい。椿の葉を巻いて作った即席のきせるが霜に凍っている。

 

 

 

  家集『柿園詠草』からの1首である。紀州藩士であった加納諸平は、藩の命を受けて、1831年(天保2年)頃、たびたび熊野地方を調査のために訪れた。「夜昼という区別なく、昔の事今の事を訪ね問うて書き記し」と自ら歌の詞書に記すように、奥熊野を中心に精力的に踏査したのであった。その時の風俗情趣を詠んだ歌が家集に収められ、そこに加納諸平の秀歌が多い。

 

 

 

  椿の葉を巻いて、きせるのように用いるのは、奥熊野の習慣である。熊野地方の人々の日常の1コマを4句までの叙景に詠み、結句でそれを詩情化しているところが巧みである。俗を対象として雅に形象化した歌といえる。その飾らない表現に、洗練された知的な才気が感じられる。

 

 

 

  加納諸平の歌は、このような万葉風と新古金風とを巧みに調和させた優麗なものが多い。次の句は「都若菜」と題する1首である。

 

 

 

  朝風に若菜うる子が声すなり朱雀の柳眉いそぐらむ

 

 

 

  正月7日の朝、のどやかに聞こえてくる若菜売りの売り声から、春の日に流れるように揺れる朱雀大路の柳のしなやかな枝を連想する。さらに、その枝に綻び始める青い芽を連想するという、流麗な構成になっていて、そこに巧みさがみられる1首である。

 

 

 

  加納諸平は、1806年(文化3年)9月、父・夏目甕麿の長男として遠江(現在の静岡県)で生まれた。夏目甕麿は、本居宣長の門人であった。加納諸平は、幼少からこの父に古典や和歌を学んだ。16歳の時、本居大平の薦めで和歌山に招かれていた父が病に倒れたのを看護するために同地を訪れて、そこで後に師となる本居大平と初めて出会ったのである。翌年、父が没すると、その次の年、18歳の加納諸平は、本居大平の推挙によって紀州藩の医師・加納伊竹の養子となり、医学修業の傍ら、本居大平に国学と歌道を学んだ。

 

 

 

  加納諸平の名を天下に知らしめたのは『類題和歌鰒玉集』の刊行である。1826年(文政9年)、21歳の加納諸平は、当時の人々の佳作を集めて同書を編み、1828年(文政11年)に第1編を出版した。以後27年の間に、2、3年間隔で7編14巻を刊行したのであった。加納諸平がこの刊行を思いたったのは、自ら家集『柿園詠草』の後記に記すように、父・夏目甕麿の歌を後の世に伝えたいという思いからであった。

 

 

 

  ところが、歌壇における『類題和歌鰒玉集』の反響は予想よりはるかに大きく、編集中の加納諸平のもとに連日歌稿が送られ続けた。加納諸平はそれを、友人・伴信友に宛てた書状の中で「日々鰒玉集に入れてほしいという詠草を、飛脚が届けない日はないほどです」と述べている。実際、それらの草稿で家は埋まり、近所の家を借りて草稿をしまったほどであったという。この書に倣って同門の長沢伴雄も『鴨川集』を編み、この2つの類題集は世に広く流布する。

 

 

 

  前述の熊野地方の調査の成果は、まず1831年(天保元年)刊行の『紀伊続風土記』となる。ついで1839年(天保9年)の『紀伊国名所図会』として結実する。加納諸平33歳であった。

 

 

 

  後の、1856年(安政3年)には、和歌山城下に国学所の設立を建議していれられ、その教授を任命され、国学所総裁となった。しかし、翌年6月24日、国学所の月例歌会に出席して「夏暁」と題して次の歌を詠み、帰宅の後、急死したのであった。時に52歳であった。

 

 

 

なつのよは露よりもろく明けにけりはちすはなさくしののめの雨

 

 

 


 

橘曙覧(1812年~1868年)<前編>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たのしみはまれに魚煮て児ら皆がうましうましといひて食ふ時

 

 

 

 

 

橘曙覧

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ――私の楽しみは、たまに魚を煮て、子どもたちがみんなでうまいうまいと言って食べる時である。

 

 

 

  今回は少し趣を変え、外国の人たちにとって近世和歌がどのように受け止められているのか、ということを考えてみた。

 

 

 

  話は古くなるが、1994年(平成6年)6月、天皇皇后両陛下が初めてアメリカを公式訪問した。その歓迎レセプションの席上で、クリントン大統領が日本文化に触れ、日米親善を讃えたくだりで、ある日本の文学作品を引用したのである。それが、近世後期の歌人・橘曙覧の次の歌であった。

 

 

 

たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時

 

 

 

  下の句の「昨日まで無かりし花の咲ける見る時」には、さらなる日米関係の発展を祈念するという意図が込められているのだろう。しかしながら、橘曙覧の歌の引用に意外な思いを持った人は多かったのではないだろうか。一般的にはほとんど無名に近い橘曙覧の歌が引用されたことの驚きと、近世和歌に注目するというアメリカにおける日本文学研究の先進性が窺えることである。

 

 

 

  では、その橘曙覧とはどのような人で、どこがアメリカの人々に評価されるのであろうか。

 

 

 

  橘曙覧は、1812年(文化9年)5月、越前福井石場町の紙商、正玄五郎右衛門の長男として出生した。後に姓を橘と改め、43歳の時には、名も曙覧と改めたのであった。2歳で母と死別し、15歳で父をも亡くすという不幸に見舞われた。越前国日野村の日蓮宗妙泰寺に入って、明導に仏学を学んだが、18歳で生家に戻り、21歳の時に酒井直子と結婚した。

 

 

 

  その後も、文学と学問に対しての熱い思いを抱き続け、豊かであった生家の財産の全てを異母弟の宣に譲り、正玄家の背後にある足羽山の中腹に隠棲し、学問で生計をたてる意志を固めたが、生活は困窮した。後には、福井藩士の中根雪江の推奨もあって門人も増え、藩主・松平春嶽から学問をもって仕えることを望まれた。しかし、仕官の勧めには応じることなく、生涯を市井の歌人・国学者として終えたのであった。

 

 

 

  冒頭の歌は、家集『志濃夫廼舎歌集』に収められる52首の連作「独楽吟」の1首である。「たのしみは」で始まるこの一連の歌は、橘曙覧の代表歌として最もよく知られる。清貧に甘んじようとする生活の潔さが、平易な詠み口によって1首に形象化されて分かりやすく、多くの説明を要しないであろう。

 

 

 

たのしみは3人の児どもすくすくと大きくなれる姿みる時

 

 

 

たのしみは衾かづきて物がたりいひをるうちに寝入りたるとき

 

(楽しみは、妻と布団をかぶって寝物語をしているうちに寝入ってしまう時である)

 

 

 

たのしみは世に解きがたくする書の心をひとりさとり得し時

 

(楽しみは、世間で難解だとしている書物の精神をひとり知り得た時である)

 

 

 

  世俗的な名利など眼中になかった橘曙覧が求めた人生とは、この一連の作を読む限りでは、家族との、友人との、そして1人でいる時の「自由な生活」であったようだ。自由の代償というべきか、生活については前述した通りに窮乏していた。ある時、訪れた藩主・松平春嶽が、その有り様を目の当たりにしている。その時のことは、後編でにて取り上げる。

 

 

 


 

橘曙覧(1812年~1868年)<後編>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日のひかりいたらぬ山の洞のうちに火ともし入りてかね掘り出す

 

 

 

 

 

橘曙覧

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ――太陽の光もとどかない洞あなの中へ、灯火をともして入り、銀鉱を採掘している。

 

 

 

  家集『志濃夫廼舎歌集』から、堀名銀山を詠んだ橘曙覧の代表歌である。

 

 

 

  さて、福井藩主・松平春嶽が橘曙覧を訪ねた時のことであるが、1865年(元治2年)、橘曙覧54歳の2月26日の出来事であった。松平春嶽は、春のうららかさに導かれて野遊に出た。しかし途中で、家老・中根雪江のいう橘曙覧の住居を急に訪問してみたくなった。

 

 

 

  帰館の後に、松平春嶽自らが記した「橘曙覧の家にいたる詞」にわざわざ「にわかに訪ねたくなった」と断っているから、おそらく事前通告もなく訪ねたのであろう。中根雪江の「参議の君のお成り」という大声に、平身低頭して、這うように出てきた橘曙覧ではあったが、その住む破屋の無残さは比類のないものであった。壁は落ち、障子は破れ、すり切れた畳の上に破れ天井から日光が洩れ落ちる。

 

 

 

  橘曙覧の名は、既に松平春嶽の耳に達していた。7年ほど前、安政の大嶽に連座した松平春嶽のために、橘曙覧は頼まれて万葉集の抜き書きなどを呈上したりしている。

 

 

 

  しかし、2人の対面はこの訪問が初めてとなる。松平春嶽の供の1人、飯沼静夫の後年の談話によると、松平春嶽は土間の入り口で供の者の運んだ床几に腰をおろし、親しく話し合ったという。楽壁破障の室内に比して、その一隅の机には、おびただしい書物が山のように積み上げられ、粗末な厨子の中には、歌人たちが尊ぶ柿本人麻呂の像も祀られていた。松平春嶽は、この部屋を目の当たりにして、激しく自らを反省するのであった。

 

 

 

  「かたちはこのように貧しく見えるが、曙覧の心の雅さこそ、限りなく尊敬に値するものだ。自分は富貴の身であり、大きな屋敷に住み、何ひとつ不自由ない身の上なのに、家には万巻の書の蓄えもなく、心は寒く貧しく、顔が赤くなる気持ちがした」

 

 

 

  前述の「橘曙覧の家にいたる詞」に、このように率直な思いをしたためている。松平春嶽は、真摯に物事を見つめる人であったらしく、物質的な充足と精神世界の充足を比べて、橘曙覧の離俗の生活に崇高さを見出ださずにはおられなかったのである。一方、橘曙覧は「宰相の君が狩猟のついでに私の粗末な家に思いがけなくおいでくださいました。ありがたいのはもちろんです。ただ夢のような気持ちがして涙がポタポタこぼれますが、嬉しさのあまり、何とかこのように詠みました」と、家集に記している。

 

 

 

賎夫も生けるしるしの有りて今日君来ましけり伏屋の中に

 

 

 

――身分の低い私にとっては、今日の宰相の君の陋屋への御訪問は生きる喜びを感じるのです。

 

 

 

  数日後、橘曙覧のもとに松平春嶽から仕官の誘いがもたらされる。しかし、橘曙覧は和歌を詠み断ってしまう。

 

 

 

花めきてしばしは見ゆるすずな園田盧に咲けばなりけり

 

 

 

――いかにも花めいて美しく見えるすずなの花かもしれませんが、そのように見えるのは粗末な田舎家に咲いているからです。

 

 

 

  橘曙覧は、自身をすずなに例え、物質の豊かさや権威を離れ、分相応の足ることを知る生き方を、第1に希求したのであった。

 

 

 

  それは橘曙覧が3人の子どもに遺した家訓に端的に表れている。すなわち、「うそをいうな」「ものほしがるな」「からだだわるな(勤勉にせよの意)」の3ヶ条である。これは、今日の私たちが忘れてしまった教えではないだろうか。他国の人々から見れば、失われた東洋思想ともいえ、それを和歌という形式を借りて今日に伝えているところに、橘曙覧の和歌がアメリカの人々に好感をもって迎えられた1つの理由があるのかもしれない。

 

 

 


 

平野国臣(1828年~1864年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山

 

 

 

 

 

平野国臣

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ――私の胸にいだいている情熱の濃厚さにくらべると、桜島火山の噴煙は、はるかに色薄いものだ。

 

 

 

  幕末の歌壇に異彩を放ったのは、平野国臣ら勤皇志士の歌である。

 

 

 

  江戸時代も末期になると、幕藩体制の矛盾が噴出するとともに、ペリー来航などによる対外的な危機も加わり、国内の情勢は動乱の兆しを示していた。この変動期に、革命への具体的な行動を推し進めたのが勤皇の志士たちである。佐久良東雄・吉村寅太郎・久坂玄瑞・伴林光平ら、事敗れて志半ばで自決し、あるいは配所の露と消えた幕末の志士たち……。そのような人たちの中には、優れた歌を残している人も多い。歌は本領ではなかったが、特殊な状況下における彼らの雄々しい絶唱は、優れた詩才に支えられ、悲哀を含んで潔く、胸を打つものがある。

 

 

 

  平野国臣は福岡藩士であったが、1856年(安政3年)29歳の時、4人の子と妻を残して、14歳の時に入った養家・小丸家を去り、平野次郎国臣と称して討幕運動に身を投じた。

 

 

 

  こうして迎えた1863年(文久3年)は、尊皇攘夷の大きなターニング・ポイントであった。

 

 

 

  この年の8月、吉村寅太郎らの討幕尊攘の最過激派、天誅組が大和五条に挙兵する。平野国臣は、これに呼応して10月12日に、七卿落ちの1人であった沢宣嘉を擁して、但馬(現在の兵庫県)の生野銀山に挙兵した。代官所を占拠するなど生野の乱を起こしたが、わずか3日で鎮圧され、平野国臣は京都に移送、六角の獄舎に投じられた。

 

 

 

  クーデターは失敗に終わったが、この乱は以後の討幕運動に大きな刺激となったのも事実であった。

 

 

 

  冒頭の1首は、平野国臣の代表歌で、家集『囹圄消光』からである。ちなみに、囹圄は牢獄のことである。脱藩した平野国臣は、1858年(安政5年)、薩摩に下った。そこで、西郷隆盛らとの勤皇運動が思うように進展しないことを嘆いて詠んだのがこの1首であった。桜島の煙とは、薩摩の同志の革命に賭ける思いを言っているのである。煙に装えて、異性に対する思いを詠むのは、王朝和歌の常套手段である。富士の煙を題材とすることが多い。しかし、平野国臣のこの歌は、桜島岳の煙をもって革命家の情熱を詠んだものであり、そこに平野国臣の発想の自由さがある。

 

 

 

  平野国臣は、幼い時から記憶力が優れ、母から口移しで教えられた百人一首を5歳の時には諳じていたという。長じて国学を富永漸斎に、漢学を亀井暢洲に学んだが、王朝時代の歴史故実に強い関心をよせ、自身の出で立ちまでも烏帽子直垂に箒鞘の太刀をはくという異形であった。それは、人の意表をつくというよりも、故実を尊ぶ熱心さのあまりなのであった。

 

 

 

  挙兵に失敗し、捕縛された平野国臣は、1864年(文久4年)7月20日、六角の獄舎で未決囚のまま槍で突かれて処刑されるという、悲壮な最期を遂げた。その時、自ら監獄の格子窓に進み寄り、次のような辞世の詩歌を窓外に差し出し、御所の方向を拝み、そののち向き直り「可なり」と言ったのが最期の言葉であった。

 

 

 

憂国十年  国を憂ふること十年

 

東馳西走  東に馳せ西に走る

 

成否任天  成否は天に任せて

 

魂魄帰地  魂魄地に帰る

 

 

 

みよや人あるじの庭のもみぢ葉はいづれひと葉もちらずやはある

 

 

 


 

参考文献一覧

 

 

 

 

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・江戸時代とは何か

 

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